8世紀の大阪は副都だった? 後期難波宮の役所跡が出土
首都の平城京と副都の難波宮で役割を分担
8世紀後半は平城京と後期難波宮のふたつの都が並び立つ二都並立の時代だった。首都の平城京に対し、後期難波宮は副都の役割を担っていた。 調査担当者のひとりは「古代中国では、洛陽と長安のように、都はひとつに限定せず、複数あってもいいという考え方が定着していた」と振り返る。「聖武天皇は天武天皇以来の二都構想に基づいて難波宮を再建した。難波宮では平城京との明確な役割分担の下、整然と政務が行われていたのではないか」と話す。 役割分担の詳細は分からないが、海に面する難波宮は国際港を抱えていたことから、外交や交易に関する政策の拠点だった可能性が高い。政治の平城京、経済の難波宮だったという推理も成り立つかもしれない。 役人たちは上町台地に広がる街区の官舎から、それぞれの役所へ通勤していた。宮内道路を東へ進むと朝堂院へ。大陸からやってくる特使をいかにして出迎えるか。あれこれの懸案と向き合う役人たちが、忙しく行き交う情景が目に浮かぶ。都市のかたちをめぐる論議が大阪で続く中、8世紀の二都並立体制も、今後の都市運営のヒントになりそうだ。 (文責・岡村雅之/関西ライター名鑑)