「水ダウ」と「新宿野戦病院」。新型コロナパンデミックの「ナラティブ」の描き方【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】
連載【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】第67話 新型コロナパンデミックを題材にした、バラエティ「水曜日のダウンタウン」とドラマ「新宿野戦病院」の番組内容をめぐって、SNSを中心に賛否両論が巻き起こった。筆者のトピックのひとつでもある「なぜ感染症には、地震や津波のような『教訓』がないのか?」を軸に、これらふたつの番組について考えてみた。 * * * ■「感染症のナラティブ」とは ――地震が起きたら机の下に隠れよう、津波が来たら高台に逃げよう。 これらは、日本に住んでいたら子どもでも知っている、地震や津波が発生したときの対処法である。このような対処法は、地震や津波のような自然災害の悲惨さを目の当たりにし、そこに学んだ「教訓」に基づいている。 大きな災害が発生した日には、追悼式典が毎年開催される。同じような被害を繰り返すことがないよう、その悲惨さを語り継ぐことが目的のひとつである。このような機会は、災害の悲惨さを「ナラティブ(物語)」として語り継ぐことで、「教訓」を後世に残す役割を果たしている。 しかし感染症には、「災害が発生した日」のような節目となる日がない。そのため、追悼式典のような、その悲惨さを語り継ぐ機会がない。感染症は、その被害の程度が地域や人によってまちまちであるため、多くの人が共感するような「ナラティブ」が生まれづらい。そのようなことを、過去にこの連載コラムで言及したことがある(26話)。 「感染症のナラティブ」についての考察、というのは、私のウイルス学者としてのサイドワークというかライフワークというか、折々に考えたいトピックのひとつになっている。つまりまとめると、地震や津波の場合には、机の下に隠れる、高台に逃げる、というような「教訓」がある。しかし感染症には、そのような「教訓」がない。感染症の「教訓」を残すために必要な「ナラティブ」とはいったいなにか? ということになる。 夏休みも終わり、2学期が始まって間もない頃、ふたつのテレビ番組、バラエティ「水曜日のダウンタウン(水ダウ)」とドラマ「新宿野戦病院」が、新型コロナパンデミックを題材にしていた。番組内容をめぐってSNSはバズり、賛否両論が巻き起こった。今回のコラムでは、「感染症のナラティブ」という観点から、このふたつの番組についてちょっと考えてみた。