いすゞ自動車が放った最高傑作「117クーペ」。その美しいスタイルの秘訣とは?【歴史に残るクルマと技術034】
いすゞ自動車の源流は、石川島造船所
いすゞ自動車の源流は、1893年に設立された石川島造船所まで遡る。石川島造船所は、明治以前から帆船や軍艦を製造。第一次世界大戦で造船事業や軍事事業で莫大な利益を得て成長し、将来を見越して1916年に自動車部門を設立、これがいすゞ自動車の源流である。 1933年、石川島造船所はダット自動車(日産の前身)と合弁し、新会社の自動車工業となり、これに生き残りを模索していた東京瓦斯電気工業(日野自動車の前身)も1937年に合流。3社を母体とする東京自動車工業が誕生、これがいすゞ自動車の創業になっている。 1941年にヂーゼル自動車工業と改称し、1942年には特殊車両を受け持っていた日野製造所が、日野重工業として独立。 戦後、1946年に日野重工業は日野産業(後の日野自動車)となり、ヂーゼル自動車工業は1949年にいすゞ自動車と改称した。
戦後トラック・バス事業から乗用車に参入してベレット1600GTを発売
戦後になって大型ディーゼルエンジンやトラック・バスの分野で成長し、日本を代表する自動車メーカーとなったいすゞは、総合自動車メーカーとして乗用車への進出を目指した。 1953年に英国のルーツ・モーターズと技術提携し、技術供与を受けながらヒルマン・ミンクスのノックダウン生産を開始。1957年にヒルマン・ミンクスの完全国産化を実現すると、いよいよ完全オリジナル乗用車の開発に着手。出来上がったのが、1963年にデビューした「ベレット」だ。 軽い車体に日本初となるディスクブレーキや、当時では珍しい4輪独立懸架など、最新の技術を採用して高い運動性能を誇った。その中で、特に“ベレG”で知られる「1600GT」は、日本初のGTカーであり、その後「スカイラインGT」、「トヨタ2000GT」と、日本にGTカーブームをもたらしたパイオニアである。
ジウジアーロの美しいデザインが他を圧倒した117クーペ
ベレットで乗用車メーカーの仲間入りを果たしたいすゞは、1966年の東京モーターショーに「117クーペ」と名付けたスポーツクーペのプロトタイプを展示し、大きな注目を集めた。 特に、イタリアのカロッツェリアのチーフデザイナーだったジウジアーロの美しいデザインは、目を見張るものがあり、117クーペの市販化を望む声が高まった。 それから2年後の1968年12月、満を持して117クーペは市場に放たれた。メカニズムは、基本的にベレット1600GTをベースにしたモノコックボディの4人乗り2ドアクーペ。駆動方式はFRで、サスペンションは前がダブルウィッシュボーン/コイルスプリング、後ろはリーフ・リジッド。 エンジンは、最高出力120ps/最大トルク14.5kgmを発生する1.6L直4 DOHCにソレックス型サイド・ドラフトキャブ2基を装着。トランスミッションは4速MTを組み合わせ、最高速度は190km/h~200km/h、0-400m加速は16.8秒と俊足ぶりをアピールした。 発売当初は、その美しいボディを実現するため多くの部分をハンドメイドで成形されたため、受注に対応できず月間生産台数は30台~50台にとどまり、そのこともあって車両価格は172万円。ちなみに、当時の大卒の初任給は3.1万円程度(現在は約23万円)なので、単純計算では現在の価値では1200万円を超える高額だ。 117クーペの3年間の生産台数は僅か2458台、憧れの希少な高級スポーツクーペとして歴史にその名を刻んだのだ。