私が私であることの偶然性という問題、クッツェー研究の第一人者が迫る―田尻 芳樹『J・ M・クッツェー 世界と「私」の偶然性へ』鴻巣 友季子による書評
「<英語>文学の現在(いま)へ」というシリーズの第一巻である。「英文学」ではないところに留意したい。第二次大戦前後から世界中で<英語>という表現媒体を共有し問い直してきた作家たちを紹介する研究書シリーズだ。 クッツェー研究の第一人者である著者による本書は、学生読者も意識してテーマ別ではなく年代順の構成をとっているが、それを貫くテーマが幾つもある。 文体論としては、英語「時制」に焦点を当て、現在形で書くことの多い作家にあって作品の一部がなぜ過去形で書かれたかを解く。また、『動物のいのち』『エリザベス・コステロ』に書かれる共感的想像力。それをもって動物の内部に入りこむことについて、クッツェーの思考に沿いながら敷衍(ふえん)してくれる。「生まれつき翻訳」という概念も重要だ。翻訳書に擬態して現れた「イエス三部作」などが志向するものは何か? 著者最大の関心事は第一作『ダスクランズ』から最新作までつらなる、私が私であることの偶然性という問題だ。これに一冊通して迫る。作家論として網羅的かつ、一般読者にもありがたい解説書である。 [書き手] 鴻巣 友季子 翻訳家。訳書にエミリー・ブロンテ『嵐が丘』、マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ1-5巻』(以上新潮文庫)、ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』(河出書房新社 世界文学全集2-1)、J.M.クッツェー『恥辱』(ハヤカワepi文庫)、『イエスの幼子時代』『遅い男』、マーガレット・アトウッド『昏き目の暗殺者』『誓願』(以上早川書房)『獄中シェイクスピア劇団』(集英社)、T.H.クック『緋色の記憶』(文春文庫)、ほか多数。文芸評論家、エッセイストとしても活躍し、『カーヴの隅の本棚』(文藝春秋)『熟成する物語たち』(新潮社)『明治大正 翻訳ワンダーランド』(新潮新書)『本の森 翻訳の泉』(作品社)『本の寄り道』(河出書房新社)『全身翻訳家』(ちくま文庫)『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくまプリマー新書)『孕むことば』(中公文庫)『翻訳問答』シリーズ(左右社)、『謎とき『風と共に去りぬ』: 矛盾と葛藤にみちた世界文学』(新潮社)など、多数の著書がある。 [書籍情報]『J・ M・クッツェー 世界と「私」の偶然性へ』 著者:田尻 芳樹 / 出版社:三修社 / 発売日:2023年04月3日 / ISBN:4384060459 毎日新聞 2023年10月14日掲載
鴻巣 友季子
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