アイルランド出身の詩人が「らせん訳」で引き出す「百人一首」の深み
浮世絵のように、外国の目利きを通じて日本文化の素晴しさが再発見・再評価されることがしばしばある。このたび刊行された『謎とき百人一首:和歌から見える日本文化のふしぎ』も、そのような流れの一つに位置づけられるかもしれない。 著者はアイルランド出身の詩人・翻訳家のピーター・J・マクミランさん。2024年11月期のNHK100分de名著「百人一首」の指南役を務めるなど、日本古典の魅力を内外に発信している。新進気鋭の書評家・渡辺祐真さんが、その読みどころを紹介する。 ***
「らせん訳」が切り拓く新たな可能性
1920年代から30年代にかけてに、イギリス人の東洋学者アーサー・ウェイリーが『源氏物語』を翻訳した。その典雅で香り高い名訳は、今なお読み継がれているほどだ。すると物好きな人がいるもので、この英訳を再び日本語に訳す者が現れた。しかも2組も! だが日本人からすれば、原文か、せめて普通の現代語訳を読めばいいじゃないか、と思うかもしれない。こうした再翻訳の意義はどこにあるのだろうか。 実際にその翻訳を行った毬矢まりえと森山恵は、「らせん訳」という言葉を用いて説明している。2人は、ウェイリーが『源氏』を英訳したとき、きっと『源氏』をシェイクスピアや聖書といった西洋文学・文化と響かせ合いながら翻訳しただろうと考えた。そこで、そんな多層世界を生かすような翻訳にしたいと思うようになった。果たして、実際に翻訳してみると、出来上がったのはただの戻し作業ではなかった。たっぷりと異文化や遥かな時間を吸い込んで、新しい可能性に開かれた翻訳になっていたのだ。ぐるりと戻りつつも飛翔する様子から、2人はこれを「らせん訳」と名付けた。 確かに二人の翻訳には日本と西洋の文化が深く息づいている。その結果、千年前の日本語だけでは聞こえなかったであろう、作品の新しい音色が多彩に鳴り響いているのだ。
古今東西の視点で語る「百人一首」の魅力
そうした作品の可能性を二重三重に広げる豊かな「らせん訳」は他にもある。それが、ピーター・J・マクミランによる『謎とき百人一首――和歌から見える日本文化のふしぎ』(新潮選書)だ。 著者はアイルランド出身で、30年以上日本に暮らしながら、日本文学の翻訳や研究、果ては版画制作まで。中でも「百人一首」の翻訳はライフワークであり、今回で実に3回目の翻訳になる。 本書には全百首の英訳、そしてその日本語訳(まさにらせん訳! )が掲載されているのはもちろん、翻訳から浮かび上がる歌の魅力、現代の研究や価値観による歌の鑑賞、そしてかるたや浮世絵といった日本文化との接点など、古今東西の視点から語られる百人一首の魅力が目白押しだ。 例えば、掛詞を論じるために「不思議の国のアリス」の例(「tale」と「tail」という同音異義語を勘違いするユーモラスな場面)を引き、流罪の歌からジェイムズ・ジョイス『若い芸術家の肖像』を連想し、大江千里の歌に西洋詩の論理性を見出し、掛詞を英訳するために工夫を重ね、東西の季節感の違いから歌の新しい魅力を引き出し、「あはれ」という多義的な言葉に様々な英語をあてはめ、百人一首のジェンダーのアンバランスさを鋭く指摘し……。もちろん日本文学としての基本的な解説も抜かりない。