齋藤知事の「公職選挙法違反」疑惑に筆者が覚えた「違和感」…そもそもの「落とし穴」
「公正な選挙のため」だったはずなのに
令和6年11月に実施された兵庫県知事選挙で勝利した齋藤元彦知事の選挙戦を巡り、SNS戦略を担当したPR会社が公職選挙法違反(買収)の疑いをかけられている問題が連日世間をにぎわせてきた。 【写真】齋藤知事大ピンチ「副知事のなり手がいない」問題が兵庫県庁内で紛糾していた 選挙活動を巡ってはこれ以外にも、同年10月の衆議院解散総選挙に立候補して落選した自民党・丸川珠代氏の陣営が午後8時以降も選挙運動していたとして問題になったし、総選挙期間中に茨城県で行われた街頭演説会の応援に入った岸田文雄前総理が、同日に行われる茨城県つくば市長選挙の立候補予定者への投票を促したことが事前運動にあたるとして、やはり公職選挙法違反の疑いが報じられたりしている。同市長選挙は選挙期間が衆議院より短かかったため、演説の時点ではまだ告示されていなかったために問題になったのである。 また、その総選挙で自民党が惨敗する原因となった政治資金収支報告書不記載の問題など、故意かどうかは別として、政治家と秘書が、政治資金がらみのルール違反で足を踏み外してしまうケースも枚挙にいとまがない。 このような、選挙や政治資金に関する不祥事が起きて大々的に報道されたときの世の中の一般的な反応といえば、政治家たるもの、選挙や政治資金に関するあらゆるルールを完全に理解して、本人自身はもちろん、周囲を含めて違反のないように努めることは当然である。ルール違反が起きたら、政治家本人が直接絡んだものは当然として、たとえ本人の知らないところで秘書や選挙運動員が独断で行っていたことだとしても、周囲をしっかり管理できていない政治家本人が悪い、ということになる。 結果として、政治家本人は相当なダメージを受けるのが常だ。 しかし筆者は最近、こうした世間の風当たりには、少し疑問を感じはじめている。 誤解のないように強調しておくが、選挙や政治資金に関するルールはたしかに必要だ。そこは揺るがない。ただ、物事には程度というものがある。現存する一つひとつのルールが、当初、どのような理由で作られたのか。その内容が今の時代にも合った妥当なものなのか。実は本来の目的から逸脱して、細かく、厳しく規制すること自体が目的化し、政治家が足を踏み外すきっかけになってしまっているのではないか。 別の言い方をすれば、そもそも公正な選挙のために作られたはずのルールが、実は矛盾をはらみ、自縄自縛に陥っているのではないか。これが1つ目の問題意識だ。