藤井聡太名人に挑戦中「孤高の天才・豊島九段」を育んだ“師匠との日々” 知られざるエピソードを公開
道場にはほかにも小さい子たちが連れてこられる。子どもの将棋は早い。10分ほどで終わると、次の手合がつくまで遊び出す。大声を出したりして、常連の客から叱りつけられる光景も珍しくない。だが豊島がそうした遊びに加わることは一切なかった。手合を待つ間も、道場の後ろに置いてある『将棋世界』や棋書をいつも読んでいた。 土井が「読んでわかるの?」と聞くと、「将棋の字はわかるから。あと数字は読めます」と答えた。母親が土井に言った。「2歳のときに植物図鑑を与えたときも、文字を全く読めないのに、図鑑の隅々まで繰り返して見ていました」。
土井は関西本部で30年近く働いてきた。将棋大会があれば会場の手伝いに行き、子どもの将棋も数えきれないほど見てきた。しかし豊島のような子は初めてだった。連盟職員たちに言った。 「すごい子がきた。あの子はきっと関西を代表する棋士になる」 ■自分がかなえられなかったプロへの夢 土井が奨励会を退会したのは32歳。初めて年齢制限が設けられたときだった。 「中学3年から、ずっと将棋だけでした。三段まで上がりましたが、その年までやったら自分の才能はわかりますから。悔いはなかったです」
11歳下の桐山清澄(九段、のちの豊島の師匠)が入会してきたのは、土井が22歳の時だった。 「桐山さんはまだかわいい子どもでした。最初は負けてばかりで、弱い子が入ってきたなという印象でした」 当初は桐山とは角落ちくらいの実力差があったが、三段リーグで並ばれる。土井の記憶では三段での最初の2局は自分が勝ったという。しかし半年が過ぎた頃には、桐山にはもう勝てなくなった。 「ああ、この人は棋士になるな」と思った。悔しさは以前ほど感じなくなった。何度も経験してきたことだ。
退会後に勧められて関西本部の職員になった。アマ大会には出場せずに、第二の人生として指導者の道を選ぶ。当時は「準棋士」と呼ばれた。月曜日から金曜日まで連盟の総務で働き、週に数日、夜は企業の将棋部に稽古に出向く。日曜、祝日は将棋大会に運営の手伝いとして駆けつけた。現在の関西将棋会館建設の際には、当時の大山康晴会長と一緒に寄付集めに回った。 将棋連盟を55歳の定年で退職した後、嘱託として道場の担当になった。それまでも、準棋士として子ども教室を開き、月謝をもらって指導もしてきた。生活のためでもあったが、才能のある子を見つけたい気持ちが強くあった。自分がかなえられなかったプロへの夢――。