「歌舞伎揚」ができるまで 会津若松へ丁稚奉公に出るはずが東京で一念発起 生みの親のいくつかの決断が結実
米菓のロングセラーブランド「歌舞伎揚」は、3月20日に88歳で永眠した天乃屋会長・齊藤孝喜(こうき)のいくつかの決断が実を結んだものとなる。 孝喜は1936年(昭和11年)、福島県南会津郡下郷町(しもごうまち)に生を享ける。中学卒業後、会津若松にある床屋に丁稚奉公が決まり、電車で奉公先へ向かうも、会津若松駅を乗り過ごし上野駅に降り立った。これが最初の決断となる。 東京で一旗揚げるべく、自転車の荷台に一斗缶を乗せ、仕入れた甘納豆を世田谷区の住宅地界隈で売り歩く。このとき同業の齊藤龍雄と毎日のように顔を合わせていたよしみで、1953年(昭和28年)、ともに立ち上げたのが甘納豆の製造卸・有限会社天乃屋となる。
世田谷区に本社工場を構え、甘納豆を製造から販売まで一貫して手掛けるようになる。 この時、龍雄30歳、孝喜17歳。本社工場は龍雄の自宅を改装して建てられたもので、孝喜はここに住み込み龍雄の家族のように働く。 この自宅兼工場には、当時3歳になる龍雄の娘がいて、高校卒業したのちに龍雄の強い薦めもあり、孝喜と結ばれることとなる。孝喜は龍雄とは義理の親子になり、旧姓の荒井から齊藤へと姓を変更する。 なお天乃屋の創業年は、龍雄が東京都新宿区で甘納豆の卸売を開始した1951年(昭和26年)と定められる。初代社長が龍雄。孝喜は二代目社長となる。 会社を立ち上げた戦後復興期(1950年~54年)は、菓子の種類も現在ほど豊富ではなく、甘納豆は、かりんとうと並んで、人々に楽しみを与える貴重な菓子とされた。だが、その後、日本経済の急成長とともに多様な菓子が発売されるにつれ、天乃屋では甘納豆の販売は徐々に下火になっていく。
一年の中でも特に需要が低迷する夏場。ある日、孝喜が犬の散歩に出かけると、モクモクと煙を吐き出しながら従業員が忙しそうに働いている工場に出くわす。 煙とともに漂うおいしそうな香りに惹かれ、休憩に入る従業員をつかまえて質すと、ここが揚げせんべいの工場であり、揚げせんべいが売れに売れていることを知る。 思い切って製法を尋ねると「釜の中に油を入れて生地を揚げる」との返答が得られる。その後、せんべいをおいしそうにほおばる人たちの姿を目の当たりにして米菓業界への転換を決意する。 だが、米菓づくりは一筋縄ではいかなかった。孝喜が見よう見まねで始めたせんべい作りは失敗の連続で、失敗したせんべいを味噌汁に入れて食べる日々が続く。