「歌舞伎揚」ができるまで 会津若松へ丁稚奉公に出るはずが東京で一念発起 生みの親のいくつかの決断が結実
大きく立ちはだかったのが生地の乾燥。“二次乾燥”と呼ばれる工程で、仕入れた生地を揚げる前に一度乾燥させる必要がある。その際、水分量の調整が上手くいかないと、揚げたときに生地が膨らまず固くなってしまう。 1960年(昭和35年)、揚げせんべいの製造開始から6年後に「歌舞伎揚」の開発に成功する。 味づけにも決断の跡がにじむ。当時の揚げせんべい市場は、生醤油だけをかけた味づけが主流であった。その中で孝喜は、甘納豆の経験から「甘いもののほうが受け入れられる」と判断。砂糖と調味料を混ぜて秘伝のタレをつくり、そのタレで付加価値化を図り他の揚げせんべいよりも高値で販売した。 「歌舞伎揚」の由来については、歌舞伎と米菓の両方の伝統文化を伝えるべく命名されたとされる。歌舞伎は開発当時の流行り言葉であり、庶民的でありながらも重厚感が付与できるとの思惑もあったと推察される。
「歌舞伎揚」を世に送り出すとともに、孝喜は今の発展につながる英断を下す。いち早く登録商標の取得に動き出したのだった。 調べると名古屋の飴屋が菓子全般で歌舞伎の登録商標を取得していたことが判明。その飴屋に頼み込み、米菓の部分だけを買い取る形で譲り受けることとなる。 米菓で歌舞伎の登録商標を取得し、2000年代に入ると、歌舞伎揚の登録商標も認められる。
販売は軌道に乗り、スーパーマーケットの勃興にともない、一斗缶で出荷し店頭でバラ売りしていたやり方から、袋入りに変え、やがて顧客ニーズに合わせて現在の個包装タイプへ進化を遂げる。 販売増にともない生産体制も拡充。生地は、岩手県にある企業の生地を使用していたことから、1972年(昭和47年)、岩手県水沢市(現奥州市水沢区)に、同企業が新設した生地工場に隣接して岩手工場・営業所を設立。 孝喜の故郷・福島県にも工場を設立。当初は浪江町に建設を予定していたが、着工に入ると遺跡が発掘されたことから、契約上、町に土地を買い戻される。 1976年(昭和51年)、福島県矢吹町に新設した工場は、生地づくりから一貫して製造する工場となる。