「歌舞伎揚」ができるまで 会津若松へ丁稚奉公に出るはずが東京で一念発起 生みの親のいくつかの決断が結実
1984年(昭和59年)には、龍雄が会長に、孝喜が社長に就任。 販売がさらに上向くと、岩手工場・営業所も手狭になり、1991年(平成3年)、前沢町(現奥州市前沢区)に新築移転。後継の問題を抱えていた岩手県の協力生地企業も、依頼を受けて買い取ることとなり、事実上、岩手県でも生地が内製化される。 1986年(昭和61年)に小ロット生産可能型の東京工場が完成し、1996年(平成8年)には本社を東京都武蔵村山市に移転。福島工場は2019年(令和元年)、福島県西白河郡矢吹町中畑に新築移転し矢吹工場と改称する。 「歌舞伎揚」は直近の10年間余でも大きく伸長し、天乃屋の売上げの約3分の1を支える屋台骨へと成長。天乃屋の前期(8月期)売上高は96億2000万円。今期は引き続き「歌舞伎揚」が牽引役となり初の100億円の大台を突破する見込みとなっている。 売上高100億円突破は、孝喜が特にこだわっていた点だったという。 孝喜が他界する10日前、孝喜の長女の夫である大砂信行社長が病室にいる孝喜を見舞い100億円突破の見込みであることを伝えると、意思疎通が困難な状態であるにもかかわらずうなり声を発し、明らかに反応を示していたという。 7月1日、取材に応じた大砂信行社長は「最後に伝えられてよかった。生醤油をかけただけのせんべいが売られているときに、砂糖と調味料を使いタレを開発したのは凄いこと。揚げせんべいに転換したこととか歌舞伎の登録商標がなかったら、今の天乃屋はない。仕事には厳しかったがとにかく周囲を明るくする方で、社内外の方々から慕われていた」と敬う。(文中敬称略)