「北橋日記」前北九州市長の戦い ~工藤会VS市民2760日の記録~ 【前編】“最凶”暴力団が支配する暗黒の時代
企業に牙を剝く“最凶”暴力集団
そして2008年9月、北九州の企業誘致の先行きに決定的な打撃を与える事件が発生する。北九州市小倉南区のトヨタ九州の小倉工場にアメリカ軍も使う手榴弾が投げ込まれたのだ。 「(企業誘致のため)トヨタ自動車本社に何度も出向いて、当時、トヨタ自動車が大きな工場の建設を考えておられるという情報を得て、何度も本社に出向いて行った時に事件が起こりました。本当に愕然としました。北九州の受けた打撃というのは計り知れなかったと思います」と北橋さんは今でも悔しさを滲ませる。 事件当時、北橋さんは、日記にこう記していた。 ■北橋日記(2008年9月18日)「市民社会への重大な挑戦であり、強い憤りを感ずる。本市のイメージダウンは、痛恨の極みである」 ■北橋日記(2008年9月19日)「今日は、公休を取って市役所の年1回の定期的な健康診断を受ける。しかし、県警本部首脳の来庁の連絡を受け、急ぎ登庁し、トヨタ工場内爆発事件など一連の暴力団関係の捜査状況について報告があった」 工藤会は、なぜ企業をも標的にしたのか。元福岡県警の藪正孝さんは「正式には、清水建設は認めてないけど、平成15年(2003年)くらいに、関係企業を集めた席で『これから暴力団との関係は断つ』と云うようなことを宣言されたみたいです」 「それ以降、そういう姿勢をどんどん強めていって、工藤会はそれに対して拳銃の撃ち込みとか、放火とか繰り返しましたけど、それでも清水建設は意に沿わない。そうなると工藤会の発想からしたら元請け、さらには発注者を狙う。その頃から西部ガスとか九州電力、トヨタがやられだしたんですね。北九州に進出を予定していた大手企業数社が進出を取り止めたと。当時の市の幹部とかから聞いた話ですけど」と事件の背景には大手ゼネコン、清水建設の暴力団排除の動きがあったと述懐する。 凶暴さを増していく工藤会の襲撃。その裏には工藤会内部の変化が関係していた。2008年7月、四代目工藤会の総裁を務めていた溝下秀男氏が亡くなったのだ。溝下氏は、工藤会を西日本有数の暴力団組織に作り上げた人物で、野村被告が唯一、絶対服従を誓っていたといわれている。 元福岡県警の藪正孝さんも「工藤会が、最後の一線を超えたというかタガが外れたのは、溝下総裁の死が大きいでしょうね。唯一、野村会長(被告)にいろいろ言える溝下氏が亡くなってしまった。野村会長がトップとなり絶対になった。(野村会長の周囲は)イエスマンばっかりになった。そして何よりも、(野村会長は)北九州は自分の街と思っていたはず。そこで自分の意に沿わない人間は許しがたいと。そしてそれを止める人間が誰もいなかったというのが大きいと思う」と語る。 溝下氏の死を境に歯止めがきかなくなっていった工藤会。その一方で北橋さんは、その頃の日記にこう記している。 ■北橋日記(2008年10月14日)「今日の東京日程は大手企業のあいさつ回り」 ■北橋日記(2008年12月22日)「都内を朝から14時まで企業誘致、投資拡大の要請で企業経営者を訪問」 市の職員と企業誘致への道筋を地道に探っていたのだ。 また日記には「ハチ」という名前が頻繁に登場する。北橋さんと離れて暮らしていた愛犬の名前だ。 ■北橋日記(2008年7月19日)「自宅で久しぶりに愛犬ハチの顔を見る。好物のカルビの骨をあげるが、うれしそうな雰囲気でもない。犬は、えさやりと散歩の回数を尺度に飼い主との距離をはかっているというが、昔の実績はカウントされないみたいだ」 時折、顔をあわせる愛犬は暴力追放運動の支えであり、公務の疲れを癒すかけがえのない存在だった。さらにスポーツを通じて北九州を元気にしたいという思いも綴られている。 ■北橋日記(2008年2月17日)「東京マラソンに3万人。都心を快走のニュース。うらやましいイベントだ。市民参加型の『北九州市民マラソン』を関係局に提案したが、交通規制の面で困難であるというのが当局の見解と聞いた。それを何とかできないものか思案する」 ■北橋日記(2008年3月20日)「ニューウエーブ(※現ギラヴァンツ北九州)の応援で鞘ヶ谷競技場へ。サポーターの応援団の一角に陣取って手拍子、声援、ため息、もうはらはらどきどきの90分、最後に勝利の女神が微笑んでくれた」 しかし北九州市の“冬の時代”が明ける兆しは一向にみえなかった。 ■北橋日記(2009年8月14日)「またもや市内で発砲事件、暗澹たる気持ちになる。暴力団員は、別件で逮捕されても発砲事件については自供しないという」 北橋さんは「口に出して言わないにしても『北九州への投資は危ない』と多くの企業経営者は感じていたかもしれない。一生懸命、職員の皆さんと手分けをして企業誘致に全力を傾注していっていた、その矢先に今度は長野会館事件というのが起こったわけです」と当時を振り返った。