【証言】「日本人はみんな一文無しに」旧満州での貧しい生活…山田洋次監督 戦争の原体験1
■「僕の宝物はきっと燃料に」引き揚げ当日に見た光景
敗戦から約2年。大連から博多港に引き揚げることなりますが…この時、山田監督は少年時代に大切にしていた“宝物”を失うことになります。 山田監督 「僕たち少年としては、ただただ早く引き揚げの日が来ないかなと。引き揚げて、日本に帰れば、こんなつらい思いをしないで済むようになるんだと。それでようやく日本に引き揚げる日が来て、引き揚げたんだけども」 「(引き揚げが)何月何日てのが一応決まるわけだ。司令が来るわけだ。 この町内は何月何日の何時に集合。 そして、いつの船に乗るみたいな。その日を目指してみんな帰る準備をする」 「それでリュックサックと手で持てる物しか持って帰れない。もちろん家具なんかは持って帰れるわけがない。大事な物は全部売って、品物が少なくなったけど、それでも、何を持っていくかは、毎晩、毎晩、議論するわけだよな。荷物を作ってみて。『入りきらないな、これやめようか』とかいうね」 「僕は落語が好きだった。少年時代からね。 小学校4年生の時に親父ねだって、講談社の落語全集という、こんな厚い上下2巻の本があったんだよ。それを買ってもらって、僕の宝物だったのね。繰り返し、繰り返し読んでさ、クスクス笑っているような少年だったんだ」 「最後の日。いよいよ明日っていう時に、今日もう一回ちゃんと作ろうっていうので、みんなで集まって荷物を作るんだけども。俺が落語全集を入れたら親父が怒るんだよ。『お前そんな重い物を入れるもんじゃない!』『もっともっと大事なものあるじゃないか!』着替えとかさ」 「落語全集なんかより大事な物はいっぱいあるんだからと。『どうしても』といっても『ダメだ!』と。俺は泣く泣く落語全集を置いたままね、日本に帰ってきたんだ」 「難民の列を写真で見るでしょ。大勢…みんな荷物を担いで歩いている。ウクライナでもそういう人たちいっぱいいたけども。ああいう人たちにはやっぱり、そういう場があったのかなと思うね。家族集まって『何をこの袋に入れていくんだ』と。『そんな物を入れちゃ駄目だ』とか」 「同じようにそういう日があって。そして、『これでさあ出かけよう』と。 『これでこの家は見納めだよ』と言って子供たちと一緒に別れる。家を離れる日があったんだろうなって。そういう写真見ると、すぐに想像しちゃうね」 ――落語全集のその後は? 山田監督 「(家は八路軍に接収されたため)僕たちがいたのは、昔の古い病院。閉鎖された病院を直して、そこに日本人が集団で暮らしていた。一部屋に一家族みたいな。一棟に50~60人が住んでいたんだけど。この棟が『何月何日の朝9時に引き揚げる』と大体わかるわけじゃない。近所の中国の人たちも」 「その日はね、中国の貧しい少年たちがいっぱい来てんだよ。空き家になったら中に入っていくんだ。いくら僕たちが貧乏であっても、色んな物を残していく。それを取ろうと思って待ってんだよ」 「僕たちはリュックサックを担いで出てくるだろ。それで道路まで出て振り返ったわけだよ。 そしたらね、中国の少年たちが、うわーっとそこに入っていくのが見えるんだよ。 貧しい少年たちがね。片っ端から欲しいものを取るんじゃないのかな」 「その時に『ああ、あの落語全集も、あの少年が取るんだろうな』と思ってね。だけど、日本語の本を読めるわけがないじゃん。絶対焚きつけたよな…きっとストーブに。くべられちゃうんだなと思って、とても情けなかったね。“俺の宝物”が、彼にとっては、単なる“燃料”でしかないんだなあと思って」 2へ続く