東アジア情勢の流動化に考えるインドの地政学的な位置
昨年10月、日印首脳会談が行われました。外務省によると、安倍晋三首相は冒頭、「日印関係は世界で最も可能性を秘めた二国間関係である」などと発言。この会談では、外務・防衛担当閣僚会合(2プラス2)の立ち上げが決まるなど、関係をさらに深めていく方針のようです。 ホテル引きずり出し事件―スウェーデンの貴族文化vs中国の農村文化 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は、日本にとってインドは「遠くて近い不思議な国」であり、東アジア情勢が流動化する中にあって、両国の関係はより重要性を増すと考えます。これからの日印関係について、若山氏が独自の「文化力学」的な視点から論じます。
遠い国と近い国
火器管制レーダーの照射問題は、慰安婦、徴用工の問題でこじれた日韓関係がここまで来たのかと思わせた。南北会談の進行と日韓関係の悪化は、東アジアのパワーバランスを急速に流動化させつつある。 冷戦時代には「日・米・韓」 vs 「露・中・北」=「資本主義・民主主義」 vs 「社会主義」という構図であったものが、現在は、日本、アメリカ、中国、北朝鮮、韓国、ロシアの6国に台湾を加えた7者の合従連衡。もちろん日米同盟が強力な軸ではあるが、文化論的に見ても、新冷戦といわれる東アジアの対立構造は単純ではない。 新年早々、ここでは少し視野を広げて、この7者の外側にあって潜在的な力をもつインドという国の、日本にとっての文化地政学的な位置について、歴史を振り返りながら考えてみたい。 中国の総合拡張政策「一帯一路」に対して、安倍首相が提唱したとされる「インド・太平洋」という概念は、文化的にどういう意味をもつのか。 近くに問題があるときは遠くを見るべきだ。
遥かなる天竺
いつもそうだった。日本にとってインドは、歴史をつうじて、遠くて近い不思議な国であった。「五つの時代」が認められる。 第1期は日本にとってお釈迦様の国であった。 6~8世紀ごろ、日本は中国から文字(漢字)、都市(平城京も平安京も長安の縮小コピー)、法制度(律令制)といった文明の基幹を取り入れたのであるが、精神的には日本古来の文化を残そうとする(『万葉集』や伊勢神宮など)と同時に、仏教という国際思想を取り入れた。*1 仏教を取り入れたのは、中国のさらに向こう側にオリジン(起源)があるということが大きかったのではないか。「天竺(てんじく)」という言葉には、お釈迦様=仏陀の国として極楽浄土に似たイメージがある。アショーカ王、カニシカ王などは教科書にも登場してよく知られているが、ガンダーラ(現在のパキスタン北部やアフガニスタン東部あたり)の仏像文化はシルクロードをつうじて日本にも伝わり、日本仏教は「仏像崇拝教」となった。これには、アレクサンドロスの東征によるヘレニズムすなわち古代ギリシャの彫像文化の影響もある。つまり古代北インドは文化文明の結節点だったのだ。日本から見れば、まさに遥かなる天竺である。 やがてグプタ朝時代となり、その仏教文化はむしろ東南アジアに広がっていく。そして次第に衰退し、イスラム文化とヒンズー文化の時代に移る。 第2期はムガール帝国(ムガールはモンゴルの意)時代である。 16世紀から19世紀まで、チンギスハーンとティムールの血を引く中央アジア遊牧民のイスラム王朝がインドを支配する。 日本にとっては遠い国であったが、この時代、南インドはヨーロッパ海洋国の支配を受ける。16世紀、西岸のゴアはポルトガル領となり、日本にもやってきたイエズス会の宣教師たちの根拠地ともなった。東岸のマドラスはイギリス領となり、17世紀、イギリスの東インド会社はインドネシアに拠点を置いたオランダのそれとともに、アジアの海を支配した。つまり安土桃山時代、江戸時代の日本にとって、インドは、ムガール帝国よりもヨーロッパ海洋国の拠点としての意味の方が強かったのだ。お釈迦様の国は西欧会社の海外支店となる。