劇的王座奪回!村田諒太が紡いだエディオンアリーナ大阪の“奇跡”
一方、敗者のブラントは、ジェントルマンだった。 「スタートはいい流れだったが、パンチの応酬の中で効いたものがあってリカバーできなかった。彼がやるべき宿題をしっかりやったということ。序盤から攻めすぎたのがミス。この試合は濃密な試合になると考えて行ってしまった。自分の戦略ではなかったんだ。至近距離で戦った? 早いうちに打たれて距離感を見誤ったのも自分のミスだ」 足を止めて前に出た戦術を悔いた。 そして「3回目?ぜひ戦いたい。体も傷んでいない」とラバーマッチを求めた。 「負けたら引退」の背水マッチ。下馬評も村田が不利だった。だが、村田は「スパーでやっていることしか試合に出ない。スパーと同じことができたら勝てる。練習は嘘をつかない」と自分を信じていた。ロッカーを出る前には、本田会長に「僕みたいなやつにチャンスをくれてありがとうございます」と感謝の気持ちを伝えた。 「主観、概念というものは、自分次第なんです。緊張していればそうなる。感謝してここに立てばいい舞台になる。こういう話をすれば、哲学的だと言われるが、へたれな自分をそうやってカバーしている」 花道ではいつもの笑顔を封印した。 「何も考えないでおこう。瞑想状態。呼吸だけで無の状態を作ろう」 リングに上がり国歌斉唱などゴングを待つ間は、股関節を回し上体をそらした。いつものスパー前のルーティン。反対の動きをしておけば、反対の動きにつながるという身体反応を利用したもの。「冷静だった」という。 「不安がないわけがない。それがなければうんちくもルーティンも考えない。不安があっていい。不安があるから頑張れる。自分はへたれ。それでいい」 度々、彼が会見で使った「へたれ」とは関西弁で「弱者」を意味する。自らの内にある弱さを知ることで強さを得るのである。 ボクシングは辞めるつもりだった。 ラスベガスで屈辱の大差判定負けを喫した村田と会ったのは、その2週間後くらいだったか。南京都高ボクシング部OBの近藤太郎・後援会長ら村田が気の許せる人々との慰労会に合流させてもらった。まだ目に黒い隈が残っていた村田は、筆者の顔を見ると開口一番「もう辞めますよ」と切り出した。 もう決めたのか? 「98%です」 あのラスベガスの夜に夢を見たという。 ボクサーの試合の夜はアドレナリンが出たままで、ほとんど眠れない。ウトウトと目を閉じて、短い夢を見た。そこは試合前の控室だったという。 やがて目が覚めた。 「ああ夢か……」 次の瞬間、「今から、試合だったならやり直せたのに…悔しい」という感情が湧かなかったという。むしろ逆で「……もうボクシングをやらなくていいのだ」と思った。 「本当なら今から試合がやり直せるんですから、これが現実なら良かったのにと思うはずですよね。でも僕はそうは思わなかった。ボクシングをやる資格はない。引退です」 すべてに満ち足りすぎていた。 1試合のファイトマネーは優に1億円を超える。公表はされていないが、そこにTV・CMのスポンサーフィーなども加わって、おそらく歴代のボクサーで最高に稼いできたのが村田である。野球が好きな息子さんに可愛い娘さんと美人妻の幸せな家庭。年末年始はハワイの高級コンドミニアムへ家族旅行。ハングリーとは縁遠い生活に戦う理由は見つけにくかった。 本田会長も前回の敗戦理由を「ハングリーじゃなくなってしまっていた」と言った。 彼をリベンジに駆り立てるものはなくなっていた。 その夜、村田が呼び出した南京都高の後輩は、カラオケでエンドレスに郷ひろみの定番を熱唱していた。銀座のタクシー乗り場まで村田と歩きながらこんな話をした。 「あの試合が本当に最後でよかったのか? あの試合をツマミに物語を語れるのか?」 村田は黙っていた。 次に会ったとき彼の引退確率は「25%」に下がっていた。