J1強豪から突如オファー「びっくり」 デビューわずか1年…J2なのに「見られているとは」【インタビュー】
鹿島MF三竿健斗が振り返る幼少時代とプロ入りまでの過程
東京ヴェルディの下部組織育ちで2015年にトップチームに昇格した元日本代表MF三竿健斗は、高校卒業後に当時J2だった東京Vでプロデビュー。その後、鹿島アントラーズへ移籍した。鹿島でも台頭してクラブ史上最年少でキャプテンも任されている。約1年半の欧州でのプレーを経て今夏、鹿島に復帰すると、本職のボランチやセンターバックだけでなく、右サイドバックでもプレーしてマルチロールぶりを示している。そんな三竿はどのような幼少期を過ごしてきたのか。その半生を辿る。(取材・文=河合 拓/全5回の1回目) 【動画】自分でも驚き「まさか打つとは」三竿健斗が左足で描いた放物線ゴールの瞬間 ◇ ◇ ◇ 三竿がサッカーを始めたのは、日本ではなかった。父の仕事の関係で5歳までカナダで生活をしていた。サッカーを始めたのはちょうどその頃だ。「父が大学までサッカーをやっていて、その影響で5歳上の兄・雄斗(現京都サンガF.C.)もサッカーをしていました。僕も気づいたらサッカーを始めていたんです。カナダは結構、サッカーが盛んで僕も2歳頃からチームに入ってやっていましたね」。 日本に帰国してからも常にサッカーは身近にあった。自身もサッカーをプレーしながら、試合がない日にはJリーグ観戦に出向いた。「鹿島アントラーズの試合をよく観に行っていました。天皇杯の決勝も、5歳で帰国してからは毎年、家族行事で行っていました」。これだけでも十分にサッカー好きの家庭ということが伝わる。だが、三竿家の場合は4年に一度のワールドカップ(W杯)の観戦も恒例行事だった。 「1998年のフランスW杯と2002年の日韓W杯は家族で観て、2006年のドイツW杯は父と2人で行きました。フランス大会の時は、僕はまだ2歳くらいだったのでスタジアムには入っていないと思うんですけど、父が熱心でチケットに応募して買ってくれていましたね。日韓W杯の時はグループステージの日本戦全部、あとナイジェリア対アルゼンチンとか、何試合かを観ました。父は1人で決勝トーナメントの日本対トルコも観戦して、決勝戦も父と兄が行っていましたね」 ドイツW杯では、ジーコジャパンが衝撃的な逆転負けを喫したオーストラリア戦をゴール裏で観戦。三竿は、「そういう機会をたくさん与えてくれていたので、学校の課題で将来の夢を絵で表現する時には、大体アントラーズのユニフォームか、日本代表のユニフォームを描いていました。小さい頃から自然と将来はプロサッカー選手になるという意識があったのかなと思います」と原点を振り返る。 東京都武蔵野市で育った三竿。幼少期から贔屓にしていたのは地元のクラブではない。「東京ヴェルディの下部組織に入るまでは、夏休みに父と2人でカシマスタジアムまで行ってゴール裏で応援していた」と公言するほど、“鹿島贔屓”になった経緯をこう振り返る。 「天皇杯の準決勝とか、決勝を見に行くと、大体、鹿島が勝っていましたからね。自然と見に行く機会が多かったんです。やっぱり子供ながらに強いチームに対する憧れがありました」 三竿がカナダから帰国したのは2001年。そこから東京Vジュニアユースに入る2009年までの鹿島は常勝軍団として席巻。特に帰国直後の2001年、02年、鹿島はすべての大会で上位につけており、自然と惹かれていったのだという。 スタンドで「ただ応援して鹿島が勝ったら嬉しい、負けたら悔しい」という感情を抱くいちサポーターとして試合に熱中する傍ら「観ている人は応援するチームの勝つ試合を見たい。勝つことの大切さ、サポーターが何を望んでいるかっていうのは、観戦を通して感じました」と、当時へ思いを馳せる。