ルイーズ・ブルジョワ展が森美術館で開幕。自身の痛みや感情と徹底的に対峙し、表現し続けたアーティストの大規模個展をレポート
傷口の修復、心の解放
最後の章、「青空の修復」では、ブルジョワがいかにして父や母、過去と現在のバランスを整え、心に平穏を取り戻そうとしていたのかに迫る。鉛のプレートに入った切り込みから青色が覗く《青空の修復》には、傷口を糸で縫い合わせるかのように、人間関係の修復、心の痛みやトラウマからの回復などを願う彼女の心理が表現されている。 次の部屋で壁一面に展示されているのは、家庭内の不和を目にした10代の少年の混乱やそれを芸術に昇華させていく様を抽象的なドローイングと文章で描いた《昇華》。続く展示室では、最晩年の赤いグァッシュの連作《家族》《妊婦》《花》が3面の壁を覆う。 さらに、中央に置かれたケージを守るように大きな蜘蛛が足を広げる《蜘蛛》は、第1章の威嚇するかのような蜘蛛とは異なる印象を与える。1990年代になるとブルジョワは、幼少期から大切にしていた思い出の品を家から運び出し、作品の素材として用いるようになる。蜘蛛の腹部には3つの卵を抱え、ケージの壁面や中央の椅子にはタペストリーがかけられている。さらに止まった懐中時計や愛用の香水など自身の記憶と深く結びついた品々がぶら下がっている。記憶のなかの家を守る蜘蛛はタペストリーの修復をしていた母の象徴であり、ブルジョワ自身でもある。 《蜘蛛》を囲むように並ぶ布の作品《ビエーヴル頌歌》も、自身が身につけていた衣服などを使用したもの。両親のタペストリー修復工房の近くを流れていたビエーヴル川へオマージュを捧げた作品だ。オノレ・ド・バルザックの小説に主人公にちなんで名付けられた最晩年の作品《ウジェニー・グランデ》では、フランスからニューヨークに持参したハンカチやテーブルクロスに、ボタンやビーズ、造花などが縫い留められている。椿は「日記のようにその時々の記憶を宿す布や物を作品に使用することで、過ぎ去った過去を永遠のものにしようとした」と解説する。 第1章、第2章は痛みや苦しみ、激しい感情を伝える赤い色が印象的だったが、展覧会はブルジョワにとって自由と開放を意味したという青色を基調とした作品で締めくくられる。 無意識とつながることができるのがアーティストの特権だと考えていたブルジョワ。針が刺さった涙粒のような造形と、積み重なった白い抽象的な形がガラスケースに並ぶ《意識と無意識》でも、無意識と意識が対照的に表現されている。 《雲と洞窟》と《トピアリーIV》はどちらも回復と再生の力を表現した作品。《トピアリーIV》は樹木と一体化した片足のない人物像が枝を伸ばし、美しい青い実を実らせようとしている。 「ブルジョワは、苦しみから完全に解放されるとか、過去のトラウマを完全に治癒できるとは決して信じていなかったようです。それでも何度も繰り返し不安や恐怖などの痛みに立ち戻り、向き合い続け、自身の感情と記憶をアート作品として芸術の域まで高めることを98歳まで続けました。そういったアーティストの姿勢をよく表現していると思います」と本展企画者のひとり、矢作は語る。 自らを逆境を生き抜いた「サバイバー」だと考えていたというブルジョワ。本展は、地獄のような苦しみも芸術に昇華できると信じ、表現を続けた彼女の内面の探究と葛藤、そしてその芸術の力が痛々しいまでに伝わってくる内容になっている。作家にとって国内最大規模の個展となるこの機会にぜひ美術館を訪れ、その表現を体感してほしい。 なお本展は会期終了後、台北の豊邦美術館に巡回。韓国でも行われる予定だ。
Minami Goto