EU離脱で頭の体操、町田市が東京を“離脱”するとしたらどんな手続が必要?
EU離脱の是非を問い、「離脱賛成」が過半数を占めたイギリスの国民投票。このニュースを受けて、ネットでここぞとばかりにネタにされたのが「町田市の東京都離脱」だ。神奈川県に食い込むように存在するその形、市内を走る主要バス「神奈中(神奈川中央交通)バス」の存在、神奈川県相模原市や川崎市と同じ市外局番など、日頃から「神奈川県町田市」と言われてしまう要素に事欠かない町田市だが、本当に「東京都離脱」が実現するようなことはあるのだろうか。
123年前までは神奈川県だった
現在の町田市を含む多摩地区の大半は、1871(明治4)年の廃藩置県後、神奈川県に所属していた。その後「東京府」に移管されたのは22年後の1893(明治26)年。東京の水源である多摩川の上流を管理するためという理由だったが、その水源があるのは北多摩郡と西多摩郡で、町田がある南多摩郡まで移管する必要はなかった。 『あなたの知らない神奈川県の歴史』(2012年)によると、南多摩郡も含めた移管には、政治的思惑があったという。北多摩郡・西多摩郡・南多摩郡の「三多摩」で勢力の強かった自由党に手を焼いた当時の神奈川県知事・内海忠勝が、彼らの影響力を削ごうと南多摩を切り離さぬよう主張したのだ。
その後も繰り返された帰属騒動と市域の変遷
東京府への移管当時は、甲武鉄道(現JR中央線)の開通で東京への親近感が強まっていた北多摩の住民には移管賛成が多かったものの、西多摩と南多摩では激しい反対運動が起こった。しかし、後に三多摩だけでなく現在の大田区、世田谷区、豊島区、足立区、江戸川区も含めた地域を一つの県とする「武蔵県」構想や三多摩を神奈川県に戻す案、「多摩県」として独立する計画が持ち上がると、東京の経済発展の恩恵を受けていた多摩の住民は、一転して東京からの離脱に反対した。 町田市が市制を施行したのは1958年。以降これまで、河川改修などに合わせて、隣接する神奈川県相模原市や大和市と、何度も境界変更を行っている。相模原市との境界変更は、主に飛び地を解消して生活や土地利用上の不便をなくすためのもので、今後も段階的な実施を予定している。