女性は「地方にいろ」と言うのか…「消滅可能性都市」増田レポート最新版が押し付ける「少子化の責任」
女性に「移動するな」と言うのか
これに対し、消滅可能性自治体リストはただ、自治体間の競争を煽るだけのものだ。ここには、問題解決に取り組む市町村の試行錯誤への関心は、数値に隠れてまったく見えない。 生きた政策には、現場の試行錯誤と努力が不可欠である。上から号令して何かが実現されるということはない(だからコロナ禍を機に導入しようと目論まれている、非常事態時の国から自治体への「指示権」などは不要なだけでなく、害になる。桜を見る会問題で紛糾した国会への対応として学校一斉休校が行われた2020年2月末のあの経緯も思い起こそう〈新型コロナ「突然の休校要請」のお粗末さに抱いた「ある疑念」〉。 まして自治体間を競争させても、そこでよい政策が出てくるなどということはない。こうしたトップダウン手法そのものが自治体の政策力を減退させ、消滅へと誘うものである。 だが、ここでさらに一歩引いて、前編に引き続き若年女性の地域偏在という問題について今一度考えてみたい。 まず疑問なのが、若い女性がそこにいなければ、その地域は消滅するのかということだ。周知の通り、人口は社会増減(転入と転出)と自然増減(出生と死亡)の和である。出生数が少ない場所も、別の場所でちゃんと子どもが生まれ、そこから補填(流入)されればなんの問題もないわけである(実際に、いわゆる限界集落が消えないのは、転入や通いがあることによる)。 だから、問題は若い女性の地域偏在ではない。そもそも、だれがどこに住もうが勝手ではないか。それを若い女性だけ名指しで、大都市には移動するな、そこにいろと言う。「女性に向きあえ」といっておきながら、ここにはどうにも男性中心主義の強い臭いがする。
国策の失敗
よく見てみれば、若い女性がいない、子どもがいない地域とは、出産や子育てがしにくい地域ではないだろうか。それも政策的にそうなってきたものである。 多くの場所で出産できる病院がなくなっている。そもそも産婦人科医が足りないという問題もながく指摘されてきた。産婦人科がないのは、地方のせいではない。どこにいても安心して子どもが産めること、これは国がきちんと責任を持つべきことである。 さらに、地方創生では保育所の数ばかりが問題になったが、その裏側で小中学校、高等学校の統廃合が進み、末端の地域で学校がないのはいまや当り前とされている。だが、それでどうやって子育てしろというのか。これも同じく、ある意味で国策の失敗だ。 すでに高校進学率が100パーセント近くになっている中で、地域に高校がないだけでも子育てには労力がかかる。その高校がいま都市部でさえ削減されている。さらにはそこへ通う公共交通までもがズタズタだ。そしてこれもまた、国が責任を持って補償すべきことに他ならない。 これでは子育ては都市でしか、さらにいえば大都市でしかできないものだと、人々が思うのも仕方がない。これは市町村の政策の失敗ではない。国策、あるいは都道府県がとってきた政策の失敗である。 そもそも人口減少対策は、国が行った2000年代の改革の失敗やその後のインフラ外しが原因となっている可能性が高い(第三次ベビーブームの不在。詳しくは拙著『「都市の正義」が地方を壊す』参照)。 まずはそれを反省し、社会解体を導いた改革を戻し(国土庁解体と平成の市町村合併がとくに大きいと筆者は見る)、なかでもこの改革によって進行した国への権力集中を解いて地方分権を実現させることこそが、人口減少対策の要件になる。