町田、電撃引退の真相
2月のソチ五輪で5位に入賞し、3月の世界選手権では銀メダルを獲得した町田樹(関大)が28日、全日本選手権が行われていた長野・ビッグハットで突然の引退表明をした。 まだ24歳。衰えが見える年齢ではない。10月に引退を表明した28歳の高橋大輔、昨年の全日本選手権を最後に引退した織田信成(当時26歳)と比べても若いうえに、“フィギュアスケート作品を作り上げる”ということでは抜きんでた力を持つ町田が、突然の引退を決めたのはなぜなのか。
ファンも報道陣も選手仲間も、そして日本スケート連盟も仰天する引退宣言だった。連盟は全日本選手権男子シングルで4位となっていた町田を来年3月の世界選手権メンバーの一員として選出。ファンの前で羽生結弦、小塚崇彦とともに名前を読み上げた直後に、リンク上で町田が話し始めた。 「私事ではありますが、フィギュアスケート選手としての引退を本日、決断しました。つきましては、世界選手権の代表も辞退させていただきます」。ファンは驚きの声をあげていた。 引退の真相はどういうものか。リンクでのできごとから約20分後、報道陣の前に現れた町田は、手にA4の紙を数枚持ちながら、「僕の思いをお伝えしたいので、今から読み上げます」と切り出し、約4分間に渡って引退声明文を読み上げた。 そこで明かされたのは、突然という形に見せながらも自身の中では極めて用意周到な準備を経ての引退宣言だったという事実だ。 町田はまず、「近年はスポーツ選手のスポーツキャリア問題が社会問題となるに至っており、JOCも問題解決に向け、アスリートセカンドキャリアサポート事業に取り組んでいるほどです。私も選手引退後のキャリアデザインに苦労した一人です」と以前から引退後の道を模索してきたことを説明。そのうえで、「自分自身でセカンドキャリアへの一歩を踏み出せるよう、競技を続ける傍らで文武両道を胸にここまで準備をして参りました」と続けた。 町田によると、10月下旬に行われたGPシリーズ第1戦のスケートアメリカに出場するため、米イリノイ州シカゴに向けて出発する直前に早大大学院の一般入試を受験した。合格の知らせが届いたのはスケートアメリカのショートプログラム(SP)が行われた10月25日。「文字通り万感の思いで演技をした」結果、SP、フリーとも1位で見事優勝を飾った。続いて出場した11月下旬のGPシリーズ第5戦のエリック・ボンパール杯(フランス)では優勝こそ逃したものの2位。GPファイナル出場を決めた。 ただ、この頃から調子は下降していった。日本スケート連盟の小林芳子フィギュア強化部長は「(関大を)今年卒業するということを聞いていたし、スケートアメリカ、フランス杯、(グランプリ)ファイナルはずっと勉強道具を持ってきていた。卒論を書いたり、すごい量の本を持ってきていたので、フランスから失速したのは否めないなと思った」と振り返った。 12月中旬のGPファイナル(スペイン)前は卒論制作にも忙殺された。その結果、6人中6位。それでも全日本選手権の開幕前日には「GPファイナルまでに質量ともに納得のいく論文が仕上がって、年始に提出する見通しが立った。GPファイナルからは全日本に全労力を傾注させてここに臨んでいる。コンディションはそれなりに落ちていたが、人事は尽くした。後は天命を待つのみ」と安堵感を見せながら、集中力を高めていた。