大谷翔平“頭の良さ”に栗山監督が感嘆した瞬間 「先輩に呑みに誘われた時の“衝撃”の断り文句」
二刀流について
翔平に初めて会ったのは、彼が高校2年生の春。震災直後の4月で、番組の取材でした。以前から(花巻東高校の先輩である)菊池雄星に「すごい後輩がいる」という話は聞いていましたけど、その時の印象は「すごく頭の良い選手」です。キャッチャーの子が津波の被害を受けた、という話を聞きましたが、答えの内容とは別に、論理的な考え方とか、答えるスピードの速さに、それを感じましたね。 その年、夏前の試合でピッチングを見て、夏の甲子園でバッティングを見て、両方とも間違いなくプロの世界でトップに立てるレベルにあると確信しました。 翌年、僕は日本ハムの監督に就任しましたから、早い段階から「大谷獲得」を主張してきました。会議で当然、彼をどう起用するかという議論になりますよね。僕はどちらでも出来るという確信があったので「誰かがどちらかに決められない選手だ」と言い続けてきました。高校生の段階、身体がまだ出来ていない段階を見ても両方出来ると思った。だから、逆にどちらかを殺してしまうことは出来ない。ファイターズでは、選手が持っている才能を消さない、邪魔しないことを指導のベースにしています。ものすごい才能を2つ持つのに、どちらかをやめてしまうという選択肢は頭にまったくありませんでしたね。 球団内でも二刀流に反対の声はなかった。もちろん外からの批判はありましたけど、一切気にしませんでした。ダメだと言われている点に耳を傾け、その理由を潰せば良い。僕はそれは出来ると思っていました。 ですから「二刀流」は交渉時に我々から提案したもの。翔平はどう思っていたのか? う~ん、本人に聞いてみないと……。でも、多分本人も「2つ」出来ると思っていたと思いますね。
外出相手は報告
〈2012年のドラフトでは、大谷は早くから「メジャー志望」を宣言。多くの球団が手を引いたものの、ただ一球団、日本ハムが強行指名に出た。そこで出された「二刀流」の提案に、高校3年生の心は大きく動いた。そうした事情もあって、大谷は「メジャー志望」を翻意。その後の活躍は周知の通りだから、選択は正しかったと言えよう。一方で、その私生活はベールに包まれたままだ。〉 (投手と打者の)2つやるということは、ケアも2倍必要です。練習も2通りやれば、それだけ怪我をするリスクも上がりますよね。二刀流をやる以上は、それだけやらなければいけない。 だから、僕はもともとルールは大っ嫌いなんですけど、翔平についてはあえて「制限」をもうけることにしました。具体的には、外出する時には、誰と行くのか、ぜんぶ教えろ、と。 特に北海道は、少し活躍するとすぐにスター扱いされてしまう。つい「ちょっとススキノ行くぞ!」となりがちなんです。でも、遊ぶのは野球をやめてからいくらでも出来ますからね。 外出相手を全て僕に報告となれば、みんな誘いにくくなる。僕に誰とどこに行っているか把握されているので、相手も翔平に門限を破らせにくくなるんです。 ただ、事前に報告させただけで「行くな」と言ったことは一度もありません。また途中から、自分が行きたいと思ったものは自由に行きなさい、と任せていました。人から誘われるものは全部言え、というのは最後まで変えませんでしたが。