じつは「電車のマナー」は昔より良くなっているのに、なぜ乗客たちは「イライラ」しているのか
座席で足を広げる、携帯電話で通話する、優先席を譲らない、満員電車でリュックを前に抱えない……など、その「ふるまい」が人の目につきやすく、ときにウェブ上で論争化することも多い、電車でのマナー違反。 【写真】胸をあらわにして電車を降りようとする母親も…大正時代の路面電車 現代人は、なぜこんなにも電車内でのふるまいが気になり、イライラしたり、イライラされたりしてしまうのか？ そんな疑問を出発点に鉄道導入以来の日本の車内マナーの歴史をたどり、鉄道大国・日本の社会を分析した 『電車で怒られた！ 「社会の縮図」としての鉄道マナー史』(6月19日発売・光文社新書)を、日本女子大学教授・田中大介さんが上梓する。 現代人のマナー意識を形作る、「気遣いの網の目」を解きほぐしつつ、丹念に鉄道マナーの歴史を追う本作から、エポックメイキングな出来事などを分析した一部を紹介する。 ※本記事は田中大介著『電車で怒られた！ 「社会の縮図」としての鉄道マナー史』から抜粋・編集したものです。
「規範劣化」言説はなぜくりかえされるのか？
(現代の)鉄道公安・鉄道警察隊に関する刑法犯・法令違反・妨害事故件数の大勢をみると、治安はおおむね改善しており、法律的なレベルで規範は劣化したとはいいがたい。また、事故数も非常に少なくなっており、鉄道は安心・安全なインフラとして定着しているといえるだろう(小島英俊『鉄道快適化物語』創元社、2018年:195頁)。 車内環境についても、車体や台車の改良による振動・騒音の抑制、車体・座席の拡大、冷暖房、トイレ、照明の改善などによって、その快適性は大きく改善している(小島英俊『鉄道快適化物語』)。にもかかわらず、現代の鉄道利用者たちはいまだにイライラしているようにみえる。 それと同様に、鉄道規範の劣化言説も戦中から現代を通して継続的にくりかえされてきた。これが事実であれば、日本社会の規範は劣化し続けていることになり、映画『マッドマックス』シリーズのような暴力と混沌の世界に至っていてもおかしくない。だが、現実はそのようになっていない。だとすれば、法律的な規範というよりも、慣習的な規範が劣化してきたのだろうか。 慣習的規範の「良化/悪化」の客観的実態とその長期的推移を定量的に計測することは難しい。データが限られており近年のものしかないが、マナーに関する利用者の主観的認識の推移としてわかりやすいのは、日本民営鉄道協会のアンケートだろう。 そこに「駅や電車内のマナーは改善されたと思いますか？」という項目がある。2010年代に入ると、「とても改善された・少し改善された」の割合と「とても悪化した・少し悪化した」の割合が逆転し、改善されたとする割合が高くなっている。つまり、近年では、マナーが良くなっていると思うひとが増えていることになる。 さらに、新型コロナ禍で発出された緊急事態宣言やまん延防止等重点措置によって乗車率が低下した時期になると(2020年から2022年まで)、さらに改善したと考える人が多くなっている。令和2年度の平均混雑率は、東京圏:163％→107％、大阪圏126％→103％、名古屋圏132％→104％と大幅に低下し、翌年もおおむね横ばいとなっている。 ただし、令和4年度の三大都市圏における平均混雑率は、東京圏:123％、大阪圏:109％、名古屋圏:118％となり、東京圏は15ポイント、大阪圏は5ポイント、名古屋圏は8ポイント増加している。新型コロナの影響が低下し、乗車率が戻りつつあるせいか、2023年にかけて悪化したと考える割合が急増している。前年5位であった「周囲に配慮せず咳やくしゃみをする」が2位に上昇しており、近接・接触に関わる警戒度が上がった状態で、乗車率が戻ったために悪化したようにもみえる。 一方、一貫してもっとも割合が大きいのは「変わらない」という意見である。この意見の割合が40～50％を維持し続けているところをみると、普通に電車を利用している限りにおいては、ときどき不都合や不愉快があったとしても、多くの人が「まぁこんなものだろう」と思っていることがうかがえる。こうしたことをふまえてあえて強くいえば、人びとの「マナー」は十分に備わっており、「マナー問題」は――メディアのなかにしか――存在していないといえるかもしれない。「穏やかな電車」は、乗客たちのこうした認識に支えられて成り立っていると考えることもできるだろう。
