じつは「電車のマナー」は昔より良くなっているのに、なぜ乗客たちは「イライラ」しているのか
規範に対する期待が高度化している
教育社会学者の広田照幸は、『日本人のしつけは衰退したか』(講談社現代新書、1999年)において、しつけ衰退説を検討している。その結果、「昔はしつけがしっかりしていた」とはいえないとしている。かつてのしつけは地方間・世代間の格差が大きく、労働のしつけ以外は「ゆるゆる」の状態であり、礼儀作法も一部の階層に限られていた。にもかかわらず、「しつけが衰退した」という不安が大きくなるのは、現代に近くなるほど、家族が熱心に教育するようになり、すこしのミスも許されないと思い込んでしまうからである、という。 とくに現在の教育方針として存在する児童中心主義的なイデオロギーには、「子どもを自由にさせたい」と「しっかり教育しなければならない」というジレンマがある。そのため、さらに不安がかきたてられる。しかも、新しいメディアが現れて子どもの情報環境をコントロールしにくくなる。その結果、教育に熱心になればなるほど子どもへの不安が高まり、しつけが衰退したと思えてくるというわけだ。 さらに社会学者の森真一はこうした議論をふまえつつ、現代社会においてはマナーに対する期待の違い、すなわち個人的・社会的な葛藤があることによって諍いがおこることを「マナー神経症」の時代と述べている。そして、マナーが悪化したとも、していないともいえないが、若者のふるまいに対する大人のまなざしが厳しくなっているという(森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』中公新書ラクレ、2005年:229頁)。「マナー神経症」という表現からわかるように、マナーそのものが悪化したというよりも、マナーに対するまなざしが厳しくなったことによって、より細かいことがいちいち気になってくる様子がわかる。 こうした議論を踏まえると、鉄道に関しても、規範そのものの変化というよりも、規範に対する期待水準が高度化している点が重要だろう。鉄道の快適性が上がったにもかかわらず、利用者の不快感が完全に消えることがないのも、快適性に対する期待の水準が高まっているからではないだろうか。そして、それが所与の前提となることで、周囲の小さな違和感に対してさらにセンシティブになる。 次章以降詳しく述べるように、「劣化言説」はマナー改善の運動や実践と強く結びついており、そうであるがゆえにくりかえされてきた。しかも、マナーが実際に整備され、マナーに対する期待値が上がっていけばいくほど、些細な違和や軽微な逸脱に対しての寛容度が下がる。そうすると、かつて気にならなかったことまで気になりはじめ、「劣化した」という感覚(Sense)が強まってしまう。 それは乗客たちのイライラやムシャクシャの要因にもなるだろう。そして、さらなるマナー改善が推進される。規範に対する人びとの高感度センサー(Sensor)を通じたフィードバック・ループが、メディアを介して発生しているのではないか、というのが本書の見立てである。つまり、マナーの感度が良ければ良いほど、乗客たちの怒りの感情がちょっとしたことでも刺激されるという逆説である。 だとすれば、そのような人びとの高いマナー意識、いわばマナーに対する高感度センサーは、どのように形作られていったのだろうか。次章以降では、これらのことを鉄道に関係する規範言説の歴史を検討することによって明らかにしていきたい。 連載記事<「胸をあらわ」にして電車を降りようとする母親の姿も…「大正時代」の路面電車の「今では考えられない光景」>もぜひご覧ください。
田中 大介