「あやうく本当の姿を見逃すところだった」|ジェントルマンのためのスーパーカー、マセラティ・ボーラ【前編】
シトロエンの助けを借りて
●シトロエンの助けを借りて どの説を信じるかは人それぞれだが、ボーラの誕生を夢見たのはギィ・マルレだった。1967年12月、ミシュラン傘下のシトロエンがマセラティの株式の60%を取得した。新しくモデナのマセラティへマネージャーとして就任したマルレは、イタリアとフランスの結びつきを強固なものにするために、新たな“光り物”のアイデアを思いついた。そしてそれを実現させたのはマセラティの技術責任者であるジュリオ・アルフィエーリだったのだ。 アルフィエーリは、快適性を備えた洗練されたスーパーカーを造ろうと考えた。それは最高速度などの数字だけを売り物とする風潮へのアンチテーゼでもあった。この勇敢な取り組みによって、マセラティは富裕層をターゲットとする自動車メーカーとしての地位を維持することができた。王座を狙う新興ブランドとは異なり、この栄光を持ったブランドは、「顧客に非公式な開発ドライバーとしての役割を要求する」などの愚行をしたくはなかった。 実際、ランボルギーニ・ミウラはエキゾチックカーの誕生を見せつけていた。これ以降、ミドエンジンレイアウト以外の取り組みは、古くさいと思われていただろう。多くの意味で、ボーラは分水嶺となり、マセラティ初となるエンジンがシートの後ろに配置された市販ロードカーとなったことはいうまでもない。それに加えて、モノコック構造のボディと全輪独立懸架を誇った最初のモデルでもあった。そのサスペンションは、ダブルウィッシュボーン式であり、ミシュラン製のタイヤを履いたカンパニョーロ製アロイホイールを装着していた。 エンジニアのアルフィエーリは、クアトロポルテのファーストシリーズと同じようにド・ディオン式サスペンションの採用を検討したが、コスト面などから却下された。彼はまた、新しいフラット12エンジン開発も構想していたが、マセラティにはそこまでの投資をおこなう余裕がなかったため、実績のあるオールアロイの90度V8が引き継がれた。 イタルデザインのデザイナーとして独立したばかりのジョルジェット・ジウジアーロは、前職カロッツェリア・ギアのチーフデザイナーであった不遇の時代には、ギブリを担当していたことも忘れてはならない。一方、Studi Italiani Realizzazione Prototipi SpA(イタルデザインの前身)の共同設立者であるアルド・マントヴァーニは、オールスチール製ボディのエンジニアリングを担当した。 余裕あるスペースを持ったキャビン、エンジンやドライブトレイン全体を保持するラバーマウント付のサブフレーム、そのほか豪華装備などが嵩み、ボーラの総重量は1535kgであった。マセラティが公表しているスペックによれば、それでもオーバースクエアの4.7リッターV8は最高出力310bhp/5200rpm、最大トルク47kgm/4200rpmを発揮し、最高速度は270km/hに達した。 ボーラは1971年3月のジュネーヴ・モーターショーにてデビューを飾った。それはランボルギーニがカウンタックLP500のプロトタイプを発表したのとまさに同じ時であった。『Road & Track』誌は、「洗練されたエクステリアを備える」と評した上で、次のように指摘している。「現行のマセラティ・ラインアップは少々旧態依然としている。彼らから真の意味でのニューモデルが出るのは少し先になるだろう。ボーラがまさにその1台であり、この名門ブランドをハイパフォーマンスカーの本格的な競争へと復活させるであろう」 一方、『Car』誌は以下のように伝えている「ボーラの最も興味深く重要な点は、快適性と利便性の高さである」と。 ●会社の存続が危ぶまれる渦中でのボーラ マセラティはその過去の栄光に甘んじたわけではなく、進化し続けるはずであった。ボーラの発表からまもなくして、10馬力パワーアップした4.9リッター仕様も発表されたものの、ボーラは大成功を収めたとはいえなかった。 シトロエンはその2年前にマセラティの残りの株式をすべて取得し、多額の投資をおこなっていたが、オイルショックはスーパーカー・マーケットを破滅に追いやってしまった。さらにイタリアでは労働争議が多発し、シトロエン自身も拡大政策の行き詰まりから、経済的苦境に陥っていた。ついにミシュランは1968年にシトロエンの株式の49%をフィアットに売却し、フィアットとの協業に乗り計画を模索した。しかし、何の成果もないまま、フィアットは1973年に株式を売却し、両者の関係には終止符が打たれた。さらに、多額の投資をしたシトロエンのロータリーエンジン開発計画が土壇場で頓挫してしまった。こうしてマセラティの親会社であるシトロエンは苦境に立たされ、それはマセラティの経営を直撃した。 1974年末にはシトロエンはプジョーによって買収され、紆余曲折を経てマセラティはアレッサンドロ・デ・トマゾの配下に下った。ボーラは1978年まで作られたが、その時点までに578台が生産された(4.9リッターエンジン搭載車は275台)。一方でシトロエンSM用に開発されたV6エンジンを搭載した姉妹車メラクは、ボーラのアーキテクチャーを一部流用することで誕生した。 ボーラにとってのゴールデンイヤーは1972年であり、162台が生産された。しかし残念なことに、アドリア海の風にちなんで名づけられたボーラは、どういうわけかコースを外れてしまった。チュバスコのコンセプトモデルとMC12のようなレースマシンの派生モデルを除けば、2020年にMC20が登場するまで、マセラティのスーパーカーが再びマーケットに登場することはなかった。 ・・・【後編】に続く。 編集翻訳:越湖信一 Transcreation:Shinichi EKKO Words:Richard Heseltine Photography:Tom Shaxson 編集協力:Andy Heywood(mcgrathmaserati.co.uk)
越湖 信一