【箱根駅伝】最多14回の優勝を誇る中央大学は"二枚看板"が強力 藤原正和監督が2区出走を明言した溜池一太「エースは自分」
エントリー外れた佐野拓実主将「サポートで貢献」
藤原監督はいまの4年生を「谷間の世代」と言う。1学年上には吉居大和や湯浅仁(ともに現・トヨタ自動車)ら、1学年下には吉居駿恭や溜池といったエースが存在する世代に挟まれている。一方で「優しい子が多く、チームの輪を尊重してくれる。下級生が力を伸ばしているのも彼らのおかげ」と評す。 その先頭に立っているのが主将の佐野だ。「就任当時は、選手としての実績がない僕が引っ張っていけるかのと、不安しかなかった」と明かすが、前主将の湯浅からかけられた「前回の箱根でシード落ちした中、厳しい1年になると思うけど、主将の経験は自分を強くしてくれる」という言葉が支えになった。 佐野は1人の選手としても成長するため、質の高い練習を重ねてきた。今年3月には日本学生ハーフマラソンで自己ベストを更新。だが、箱根予選会ではタイムが振るわず、最終学年でも本戦のエントリーメンバー16人には入れなかった。 「主将なのにメンバーを外れたのは、ふがいなかったですし、悔しくもありました。箱根を走るのは入学当初からの目標だったので……。でも自分は主将ですし、いつまでも下を向いてはいられないと、気持ちを切り替えました。外れたからにはサポートの仕事でチームに貢献していきます」
卒業延期の園木大斗、父の思いも乗せて
4年生には箱根を走るために卒業を1年延期した選手もいる。園木大斗(4年、開新)だ。園木は3年時の9月から丸1年、右ひざの故障で走ることができず、箱根出走を諦めかけていた。しかしその後、故障が癒え、不完全燃焼のままで卒業するのは……と藤原監督に相談したところ、「もう1年残って続けてみないか」と言われた。 園木が箱根を目指したのは幼少期の頃。きっかけは箱根駅伝のテレビ中継を見ていた父親のつぶやきだった。「俺も走りたかったな」。それを聞いた園木は決意を口にした。「僕が代わりに走るよ」。園木の父は中大陸上競技部のOB。箱根を走りたいと入部したが、夢はかなわずマネージャーに。総合優勝を果たした4年時の第72回大会(1996年)は主務としてチームを支えた。 卒業を1年先送りにしても、自分のために、父のために、どうしても箱根を走りたかった。「箱根にかける思いは誰よりも強いです」。園木は5年目で最初の関門であるメンバー入りを勝ち取った。