京都国際高校甲子園優勝の隠れた主役、「学校は韓日が後援、選手は日本の子どもたち…世の中が変わったのでしょう」(2)
朴先生は京都国際高校の歴史を説明した。1947年に京都に住む在日同胞が資金を集めて京都朝鮮中学校を設立したのが最初だ。その後チェ・ヨンオ元理事長が現在の場所に学校の敷地を取得したが、地域住民の反対で15年間も校舎を作ることができなかったという。 どうにか学校を作って移転したがチェ理事長が突然死去し、生徒数が急減して廃校の危機にまで追いやられた。この時、金安一(キム・アンイル)後援会長を中心に何人かの理事が「野球部を作れば野球をしたい生徒がやってくるだろう。甲子園にも出て韓国語の校歌を全国に鳴り響かせよう」として野球部創立を主導した。その後韓国教育部の支援により日本政府が認める正式学校の「一条校」の資格を備え、2004年4月に京都国際中学高等学校として新たに出発し日本人と外国人の生徒を受け入れるようになった。現在は男子生徒の大部分が野球部で、女子生徒はK-POPに関心が多い。 ◇母方の祖父は徴用され28歳で炭坑事故により死亡 ――学校を再建するのに大きな役割をされたそうですが。 「2002年に在外教育機関担当で勤めていた時に『50年を超えた学校が財政困窮で廃校危機に置かれた。この学校を再建しなければならない』という内容の報告書を書きました。一条校転換に向けた用地確保に向け政府支援資金を使えるよう建議もしました。これが受け入れられて一条校認可を取得し、学校は日本政府の支援金を受けられるようになりました。大阪総領事館で勤務し2017年に校長職の提案を受け赴任しました」 ――赴任当時の学校の状況はどうでしたか。 「野球部は良い成績を出せず、女子生徒は不登校が日常でした。暮らしが厳しい子どもたちが夜遅くまでアルバイトをしているため朝登校できないのです。問題を起こして児童相談所や警察署に行った子どもたちを連れ帰ってくるのが教師たちの仕事で、学校が市内から遠く離れており定員を埋めるのも大変でした」 ――どんなことから始めましたか。 「老朽化した教育環境を変えるのが優先だと考えました。教室増築、寄宿舎の改築などを進め、運動場には甲子園と同じ土を敷きました。体育館改善補修、体力トレーニング室設置、夜間照明のLED化など野球部に向けた環境作りをしたところ選手らが自発的にトレーニングをするようになりました。パンの代わりにしっかりとした米飯の朝ごはんを食べさせ、野球部専用バスも確保しました。ユーチューブを見てダンスの練習をしていた女子生徒も専門講師を迎え楽器も変えると一日中学校にいるようになりました。不登校がなくなりました」 ――現在の生徒たちの進路はどうなっていますか。 「野球部は日本のプロチームに入団する選手がこの6年間毎年出ています。韓国プロ野球でも申成鉉(シン・ソンヒョン、斗山)、荒木治丞(LG)などが活躍しました。野球をやめた生徒たちも警察・消防公務員、看護師など多様な分野に進出しています。女子生徒は韓国と日本の大学に進学したり各自の特技を生かして仕事を探します。いまは入学競争率が2倍程度になります。何より生徒たちの表情が明るくなり学校に活気があふれているのが良いです」 ――野球部ひとつで学校が立ち上がれるというのが驚くべきです。 「日本はそれが可能です。修能の成績だけで列に並べる韓国とは違い、なにかひとつ得意なことがあれば大学に行き職を持てる構造ではないですか。そして日本は学校の部活動により生徒の才能と趣味を生かせるようにします。年末には野球部や舞踊部などが卒部式をします。この席で親に宛てた感謝の手紙を読み、これからは1人前の社会人になるという約束をします」 京都国際高校の優勝は同胞社会の自負心と結束を大きく引き上げた。また、京都市民の自慢の種になった。京都国際高校の叙事が韓国と日本の社会に及ぼした影響を尋ねた。朴先生はつらい家族史を切り出した。 「私の母方の祖父は徴用で連れてこられ28歳で炭鉱事故により死亡したそうです。韓国人が関西地方にくることになったのも、差別と苦難に耐えてアイデンティティを守ってきたのも歴史の痕跡でしょう。いまは韓国と日本政府が支援する学校として、日本の子どもたちが選手として活躍し、甲子園球場で韓国語の校歌を歌います。それだけ世の中が変わったのでしょう。より良い世の中がくるものと信じます」。