14歳で決意したガラス工芸「江戸切子」の道 「職人はお金じゃない」というイメージに一石を投じる伝統工芸士の思い
中学2年のとき、母親と訪れたデパートで、一生をささげる工芸品に出会った。それは、江戸時代後期に生まれた日本の伝統的なガラス工芸「江戸切子」。幾何学的な模様を精密に彫り込む美しさに魅了され、江戸切子職人になるという夢が決まった。自らを「邪血の江戸切子職人、伝統工芸士」と名乗る清水秀高氏(50)に、伝統の技を承継した経緯や、「伝統工芸」という事業を継続していくための戦略について聞いた。 【動画】なぜ事業承継が大切なのか専門家に聞いた。
◆14歳で進むべき道が決まった
――江戸切子職人の道へ進もうと決めた経緯を教えてください 小さい頃からモノ作りが好きで、将来は大工か陶芸家になりたいと思っていました。 中学2年の時、母親に連れられて行ったデパートで、江戸切子の実演を初めて見ました。 目の前で丁寧に手を入れ、形になっていく面白さに釘付けになりました。 それから学校が終わるたびに毎日通いつめ、ついには職人さんから「うちで働いてみるか?」と声をかけられました。 それが後の師匠でした。 中学卒業後、師匠の工房を訪問しましたが「せめて高校くらいは出なさい」と諭され、高校卒業後の進路を決める際に再度、工房を訪問しました。 でも、師匠は僕のことを覚えていなくて(笑)。 それでも「一度約束したことだから」と弟子入りを認めてくれました。 当時はちょうどバブルがはじけた頃で、会社の景気もあまりよくなかったと思うのですが、受け入れてくれた師匠に職人の『粋』を感じました。 伝統工芸の世界は、家継ぎといういわゆる血縁継承が多いのですが、血のつながりのない自分を受け入れ、育ててくれた師匠に感謝しています。
◆15年に及ぶ修行の間には、ピザ屋でのアルバイトも
――弟子入りし、独立するまでにはどのくらいの年月がかかったのでしょうか? 18歳で弟子入りし、10畳程度の工房に、6人の職人がひしめき合う環境で働き始めました。 最初の仕事は加工の下請けで、グラスに花文様を付けるところからはじまりました。 1個の加工賃が20~30円という仕事で、単価が低いので正確にかつ数をこなさなくては利益を生み出すことはできません。 当時いただいていた時給は、東京都の最低賃金と同額でしたが、たとえ1時間作業をしても時給以上の利益を出せなければ工房の赤字になります。 当時の工房にはマニュアルはありませんでした。 先輩職人の実演を見ながら、何度も繰り返し練習し、技術を習得していきました。 1個当たりは5分もかからない仕事ですが、とにかく早く、ロスが出ないよう、時給以上の利益を生み出せるよう意識しながら何万個という作業を繰り返しました。 幸い、実家暮らしだったので生活はなんとか成り立ちましたが、師匠からも「作業は早くやれ。この仕事は独立しないと、実入りが少ないぞ」と何度も言われていたので、30代での独立を目標に修行に励みました。 工房での仕事はサラリーマンと同じように、朝8時~17時までが基本です。 そこからは残業という就労形態でした。 弟子入りして6年が過ぎ、24歳の頃にはある程度時間が余るようになったので、ピザ屋でアルバイトを始めてみました。 空いた時間を有効活用でき、同世代の同僚とも話す機会が増え、経済面でもプラスになりました。 そして、15年の修業期間を経て2007年に独立し、東京・亀戸に「清秀硝子工房」を開きました。