なぜ、ボロボロに負けた神様が「軍神」として祀られているのか? タケミナカタと諏訪大社
御柱祭などの奇祭が有名な信州・諏訪の地では、蛇(龍)神信仰が生きている。甲賀三郎は、妻・春日姫を我がものにしたいと妬んだ兄に陥れられ、地底の穴蔵生活をすることとなった男だ。蛇身となってしまった甲賀三郎は、諏訪で朝日を浴びて再び人間の姿に戻ったという。陽を浴びることで身を滅したり、変身したりする甲賀三郎に鬼の姿を探る。 敗者が軍神として祀られる不思議 全国に2万5千もあるという諏訪神社、その総本社とされる諏訪大社といえば、いうまでもなく、国津神(くにつかみ)・建御名方神(たけみなかた/大国主神の次男とされる)を主祭神と仰ぐ神社である。元はといえば、天津神(あまつかみ)・建御雷之男神(たけみかづち/「火之迦具土神/かぐつちのかみ」の血から生まれたとも)にコテンパンにやっつけられ、這々の体(ほうほうのてい)で洲羽の海(諏訪湖)へと逃げ延びた御仁。追いかけられて、「恐し、我をな殺したまいそ。この地を除きては他所に行かじ」と懇願したことが『古事記』に記されている。両手を合わせて許しを請う姿が目に浮かびそうである。 それにもかかわらず、諏訪湖へたどり着いた後は、先住の洩矢氏(もりや/守屋氏)と戦ってこれを降し、諏訪王国とでもいうべき一大勢力を築き上げたことは注視すべきことである。しかも、「どこにも行きませんから…」との前言を翻し、全国津々浦々に至るまで軍神として祀られているというという現状。これをどう見なせば良いのか、考えさせられてしまう。 ちなみに、諏訪大社の式年祭である御柱祭(6年に一度開催)は、奇祭として有名。そこで中心的な役割を果たすのが御柱であることはいうまでもないが、これにどのような意味あいが含まれているのかは謎。一説によれば、古代のたたら炉を覆う高殿の4本柱のうち、南方の柱を特に神聖視していたことによるもの…といわれることもあるが、果たして? 南方(みなかた)と御名方が同じ読みというのも気になるところである。征服者であった建御名方神(たけみなかた/農耕民族)の方が、支配された洩矢氏(狩猟民族)よりも、より高品質な鉄製品を作る技術を有していたことが勝因であったとの説も見逃し難い。 また、筒粥(つつがゆ)神事など農耕民族ゆかりの祭事が下社だけで、御頭祭や御射山祭といった狩猟民族ゆかりの祭事が上社だけで行われているという点にも注目。上社あたりを拠点としていた洩矢氏に対して、新参者である建御名方神が下社あたりに拠点を置いていたことの表れと見なすことができそうだ。何れにしても、諏訪湖を中心とする地域一帯において、祭神として祀られてきたのが建御名方神であることは、疑いもない事実である。 蛇(龍)神信仰が諏訪の信仰の元の姿だった? ただし、建御名方神が祀られるようになったのは、あくまでもヤマト王権が誕生してからで、それまで当地に勢力を張っていた洩矢氏が祀っていたのは、蛇神だったとの指摘もある。いつ頃からか定かではないが(縄文時代の可能性も)、蛇神信仰との関連が取りざたされるミシャクジ信仰が元の姿で、建御名方神が支配者となって以降、祭神が置き換わったとも考えられるのだ。 この蛇神信仰は、後世、中国から伝えられた龍神信仰と習合。中世には、甲賀三郎伝説として、語り継がれるようになっていく。江戸時代に浄瑠璃や歌舞伎などの演目に取り上げられるとともに内容が微妙に変化して、諸説入り乱れることになる。ともあれ、ここでは、最も流布していると思われる伝承をかいつまんで見ていくことにしたい。 春日姫とともに諏訪湖の湖底へ 舞台は、いうまでもなく、諏訪湖からその東北に位置する浅間山にかけての一帯である。甲賀三郎の出身地に関しては諸説あるものの、近江国甲賀郡とするものが多いようだ(甲賀忍者の祖とも)。父は、安寧天皇の遠縁にあたる甲賀権守諏胤(よりたね)で、甲賀郡の地頭をつとめていたという。その3兄弟の末っ子が、主人公の甲賀三郎である。父の死後、惣領として跡を継いだのが三郎であった。春日姫という美しい妻を娶って、幸せに暮らしていたところから物語が始まるのだ。 妻とともに伊吹山で狩をしていた時のことである。妻が天狗にさらわれてしまったというのが、騒動の始まりであった。三郎が五畿七道をくまなく探し歩いたところ、信州蓼科(たてしな)の大楠の大穴に閉じ込められていることがわかった。早速、藤の蔓(つる)で編んだ籠を下ろして救出するも、妻が穴の中に大事な唐鏡を置き忘れたというので、三郎が一人穴の中に舞い戻ることになった。この時、弟を妬んだ兄が、春日姫を我がものにしたいと、藤の蔓を切ってしまったのだ。哀れ三郎は穴蔵の底に転落。抜け出ることもままならず、地底内を散々歩き回った末、とうとう維摩(ゆいま)なる国にたどり着いたとか。結局、その国の王妃・維摩姫と結ばれて、長い長い年月を過ごしてしまったというのだ。 それから13年が過ぎたある日、望郷の念絶ち難く、鬱々とする三郎。その姿を見ては、維摩姫も引き止める訳にはいかなかった。義父が教えてくれた道をたどって、何とか地上へ。それが、浅間山の麓(御代田町真楽寺の大沼の辺りとも)であった。 しかし、この時すでに三郎の身は、蛇と化していたのである。その後の展開は諸説あるが、春日姫は義兄の元を逃げ出したものの、悲しみのあまり諏訪湖へと身を投げたとか。三郎が見つけ出したときには、すでに龍となっていたという。もちろん、三郎も蛇身であるから、ともに諏訪湖の湖底で幸せに暮らしたことはいうまでもない。その後、三郎は諏訪明神として上宮に、春日姫は下宮に祀られるようになったとか。維摩姫までもが、浅間大明神として祀られたとの言い伝えまである。 なお、この伝承をもとに、長野県御代田町では、毎年7月に龍神まつりを催している。体長45mもの長大な龍神像を担ぎ上げて駆け回る姿が、何とも勇壮。諏訪湖の冬の風物詩とされる御神渡り(氷結による隆起)も、龍神の仕業とみなされることもあるなど、諏訪周辺にはとかく龍にまつわる伝承が多いのだ。 ちなみに、蛇身となった三郎が、朝日を浴びたことで再び人間の姿に戻ったとの伝承もある。となれば、まさに『鬼滅の刃』に登場する鬼(陽を浴びることで滅する)と通じるものがありそう。洞窟に降りる際に使用した藤の蔓も、鬼滅の鬼にとって毒となる藤の花を思わせるなど、両者に繋がりが感じられるのも意外である。
藤井勝彦