「脳をもたない怪物」ヒドラも眠るのか? 誰も検証をしていないことに挑む
私たちはなぜ眠り、起きるのか? 長い間、生物は「脳を休めるために眠る」と考えられてきたが、本当なのだろうか。 【写真】考えたことがない、「脳がなくても眠る」という衝撃の事実…! 「脳をもたない生物ヒドラも眠る」という新発見で世界を驚かせた気鋭の研究者がはなつ極上のサイエンスミステリー『睡眠の起源』では、自身の経験と睡眠の生物学史を交えながら「睡眠と意識の謎」に迫っている。 (*本記事は金谷啓之『睡眠の起源』から抜粋・再編集したものです)
ヒドラも眠るのか?
ヒドラも眠くなることがあるのだろうか──。 ビーカーを眺めていて浮かんだ疑問は、脳裏に刻み込まれたままだった。2年生になって大学で講義を受けているときにも、ついつい気になってノートパソコンで睡眠について調べ始める。家に帰ってテレビを見ていても、気がつけばスマートフォンで、動物の睡眠について調べていた。そして、ヒドラの睡眠について研究したいと考えるようになった。 ヒドラも眠るのか?とても興味深いことだが、はたしてそれは生物学で検証することのできる問題なのか。生物学というよりは、もはや哲学の話かもしれない。最初はそう思っていた。でもいろいろ調べていくうちに、ある考えが浮かんできた。 体内時計に関していえば、体内時計の制御を担う時計遺伝子の存在が分かっている。ヒドラの体内時計について研究すれば、「ヒドラも眠るのか?」という問題も、少しは現実的になるのではないか。 小早川先生はよく、実験室でヒドラの世話をしていた。大学教授という職業は、とても忙しい。そんななかでも、彼は自らの手でヒドラに餌をあげ、水替えを行い、ビーカーの洗浄をしていた。彼は「これは私の趣味なんですよね」と言っていた。 いつものように小早川先生が実験室で水替えを行っているとき、私は「ヒドラの体内時計について研究してみたい」と、話してみた。 専門とは異なる研究を提案するのは、なんとなく気が引けた。研究室で専門としている研究に集中するのが本来だろう。その当時、私は体内時計に関する知識は素人同然だったし、おそらく小早川先生も体内時計の研究を詳解されていなかっただろう。 いろいろ悩んだが、ショウジョウバエの体内時計の研究をしていた伊藤太一先生が、偶然近くの実験室に越してきて、いろいろ話を聞くうちに、研究の具体像が描けるようになったのだ。 小早川先生は私の話に、興味深そうに耳を傾けてくれた。彼は「ヒドラの概日リズム(体内時計の意)については、まったく聞いたことがないなぁ」と言って、しばらく考え込んだ後、「好きなように研究していいですよ」と言われた。 今思えば、あまり興味をもってもらえなかったのかもしれないが、ヒドラに関わることなら、なんでも自由に研究してみようというのが、彼のスタンスだったのだ。研究室からの帰り道、私はすごく嬉しい気分になって、今後の研究計画を考えた。 私が研究を開始した2017年当時、ヒドラの体内時計について報告した論文はなかった。ただ、その数年前に発表されたヒドラのゲノム(DNA配列の総体)の解読を報告した論文には、ほかの動物がもっているような時計遺伝子が、ヒドラには存在しないことが記載されていた。そこに書かれている通り、もし本当にヒドラが時計遺伝子をもっていないのであれば、やはり体内時計は存在しないかもしれない。しかし、「それならそれでおもしろい」と思っていた。 それは、まだ誰も検証をしていないことである。誰も足を踏み入れたことのない砂漠のようだ。道しるべはないが、思うままに冒険をして、人類未踏の地に足跡を残すことができる。
金谷 啓之