親の性虐待が原因で貧困に。希死念慮、精神障害者への偏見…絶望の中に『死ねない理由』を読んで「生きる理由」を思い出した
◆「弱者はずっと不幸でいろ」という圧力 例えば、この記事が公開になった後、私がSNS上でカフェの写真をアップしたとする。そうすると、高確率で揶揄が飛んでくる。「カフェに行くお金、あるじゃないですか」と。それが自死を思いとどまった翌日で、パートナーが仕事を中抜けして私を保護するほどの状況で、「明日もどうにか生きていこうね」と2人で泣くのを堪えて無理やり笑いながら飲んだ珈琲だとしても、そういった内情は写真には映らない。 “私が元気になればなるほど、私が好きな格好をすればするほど、憎悪を膨らませる人がいる。だから、前の状況に留まり続けることが、人の心を触発しない唯一の方法のように思えたのだ。” 貧困家庭出身のライターとして、社会における貧困問題に言及するヒオカさんは、「ずっと最低限で質素な格好をしないといけない」という圧力を日々感じているという。通ってきた苦難の道を語るとき、その人が渦中にいることを求める人は多い。その残酷さに気付ける人は一握りで、当たり前の顔をして「不幸を売り物にしている」などと言う。 「苦労を語るなら不幸でいろ」と思っている人に問いたい。下を下げて、我慢を強いて、その先にある未来は明るいのか、と。 昨夜、私が見た悪夢。今しがた眼前に蘇った記憶。そういうものだけを求めて、私の悲鳴だけを欲して、地獄にとどまることを無意識で願っている人を見るたびにゾッとする。中には私の文章を読んで、私のことを「寂しそうだから、自分が慰めてあげなければ」という歪んだ解釈をする人もいる。そのことが何よりも悔しくて、屈辱的だ。私は、そんなことのために書いているわけじゃない。
◆精神疾患者に「羨ましい」という世間 “希死念慮って、漠然とした「あー死にてー」みたいなものじゃない。もう「死にたい気持ち」に細胞レベルで侵食されて、脳も感情も乗っ取られて、死ぬこと以外考えられなくなる。” 本書にあるこの一節が「わかる」人は、世間が思うよりずっと多い。理由や病名はさまざまあれど、精神疾患を患っている人の多くは、自身の病気の実態を隠す。精神疾患者に対する風当たりの強さと無理解を鑑みれば、事実を公にする人がごくわずかなのも無理からぬことだろう。「自分の周りには当事者はいない」と公言する人は、「カミングアウトする信頼を自分が得ていない」可能性を考慮したほうがいい。 希死念慮は、精神疾患による“症状”の一種である。言ってみれば、風邪で熱が出たり、花粉症で鼻水が出るのと同じことだ。しかし、なぜか精神疾患の場合のみ「自力でコントロールできるもの」として見做される。コントロールできない人は「心が弱い」と言われ、蔑みの対象になる。インフルエンザで高熱を出した人に「なぜ自力で発熱を避けられなかったのか」という人はいない。この一点においてだけでも、精神疾患がいかに偏見に晒されているかがわかる。 先日、JRグループが2025年4月1日より「精神障害者割引制度」を導入することを発表した。これまでは、身体障害者と知的障害者のみが対象とされていた本制度を、新たに精神障害者も利用できる流れとなる。支援対象者が広がることは、本来喜ばしいことだ。だが、SNS上では目を疑うような発言が多数見受けられた。 「精神障害者手帳が羨ましい」 そんな言葉が拡散され、それらにつく無数の“いいね”に暗澹たる気持ちになった。大変なこと、辛いことが日々起こるのは、健常者も障害者も同じだろう。だが、持っているハンデが大きいからこそ「障害者」として認識され、手帳を交付され、障害年金などの支援を受けているのだ。そのことを「羨ましい」と言えてしまう人は、一度ここまで下りてきてみればいい。想像をはるかに上回る残酷な景色が広がっていることを、当事者だけが知っている。