「鎌倉遠いのに…」 なぜ全国に「鎌倉街道」が存在? 鎌倉に続かずも名称付けられる謎! 歴史的背景が理由?
いったいなぜ?各地に点在する「鎌倉街道」の謎
東京やその周辺には「鎌倉街道」と呼ばれる道路が複数存在しています。 しかし、そのほとんどは神奈川県鎌倉市へとつながっているわけではありません。そこにはどのような背景があるのでしょうか。 【画像】激レアな「赤いきつね」と「緑のたぬき」の標識がある!? おもしろすぎる道路標示・標識を画像で見る(17枚)
日本3大古都のひとつに数えられる鎌倉は、毎年2000万人あまりの人々が訪れる日本有数の観光地ですが、その大動脈として知られているのが「鎌倉街道(神奈川県道21号横浜鎌倉線)」です。 一方、東京都内にも「鎌倉街道」の名で呼ばれる道路が2つ存在しています。 ひとつは府中市と町田市をつなぐ「東京都道18号府中町田線」、もうひとつは杉並区を南北に走る生活道路で、どちらもそれぞれの地域において重要な役割を果たしています。 ただ、このふたつの道路はそれぞれが接続していないだけでなく、神奈川県の鎌倉市へもつながっていません。 さらに、茨城県牛久市や埼玉県日高市にも「鎌倉街道」と呼ばれる道路が存在していますが、それぞれ接続はしておらず、鎌倉市へもつながってはいません。 なぜ、各地に「鎌倉へ行くことのできない鎌倉街道」が見られるのでしょうか。 その答えは、古都鎌倉の歴史にあるようです。 旧石器時代から人間が定住していたとされる鎌倉は、1185年(諸説あり)に源頼朝が幕府を置いたことで、日本の歴史において欠かすことのできない場所となりました。 鎌倉が新幕府の中心地に選ばれたのは、三方が山に囲まれ一方が海に面しているというその地理的特徴にあったと言われています。 鎌倉幕府にとって脅威だったのが、京都を中心とした西部の朝廷勢力です。 そこで幕府は「東国15か国」と呼ばれる、現在の関東、静岡、長野、そして東北地方の武士に対し、土地の所有を認める代わりに有事の際には幕府に駆けつけてともに戦うという契約を交わしました。 「御家人」と呼ばれるこれらの武士たちは、鎌倉周辺や関東周辺に数百名存在していたといい、交代で鎌倉を訪れ幕府の警備にあたっていたとされています。 そして、幕府を訪れる御家人やその関係者が通った道が「鎌倉街道」の由来であると考えられます。 複数の「鎌倉街道」が存在するのも、御家人の出身地が多岐にわたっていたことが背景にあると見てまちがいなさそうです。 「鎌倉街道」は御家人とその関係者が鎌倉を目指すための道であり、軍事道路としての性格が強かったことから、そのほとんどは比較的小規模なものであったようです。 そのため、1333年に新田義貞によって鎌倉幕府が滅ぼされると、「鎌倉街道」も人の往来が少なくなり、その多くが廃道となったり、それ以外の道路に吸収されたりするなどして、じょじょにその名が消えてしまいました。 一方、江戸時代に入ると鎌倉は観光地として注目を集めるようになり、街はふたたびにぎわいを取り戻します。 しかし、鎌倉へのアクセスには東海道が大きな役割を果たしていたため、鎌倉から遠い場所にある「鎌倉街道」が主要な幹線道路として重用されることはありませんでした。 そして、1889年に鉄道が開通したことでその傾向はさらに強まることとなります。 つまり、「鎌倉街道」が目立たない存在となってしまった背景には、軍事道路として成立したという点にくわえ、東海道や鉄道といったより効率的なアクセスの方法があったことも関係していると考えられます。 ※ ※ ※ 2022年11月、埼玉県毛呂山町の「鎌倉街道上道(かまくらかいどうかみつみち)」が街道としてははじめて国の史跡に指定されました。 総延長1300mあまりからなるこの史跡には、街道とその周辺一帯が良好な状態で保存されており、当時のようすを知る重要な手がかりになることが期待されています。
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