【医療現場でもひっぱりだこのAI技術】一体化が進む人と人工物の関係、テクノロジーは人の認知をどのように拡張してきたのか
テクノロジーを介して人間の認知が拡大する
テクノロジーによって人の認知も変化してきました。さきほどの近代的個人の成立もそうですが、テクノロジーを介して、どのようにいろいろな物理現象や生命現象、社会現象が成り立っているかを知るようにもなっています。 望遠鏡や顕微鏡、カメラを思い浮かべるとわかりやすいでしょう。天動説から地動説というような転換は望遠鏡が作られたからこそ起きたわけです。 肉眼であると、どうしても地球が中心で、太陽や月が地球の周りを動いているようにみえます。望遠鏡がなければ、今でもまだ天動説を唱えているかもしれません。 また顕微鏡がなければ、毛細血管も細菌も見えませんので、私たちの生体に関する認知はいまとはまったく違っているといえます。 電子顕微鏡ができたからこそ、ウイルスという存在が見え、野口英世の発見の多くが覆されたのです。新型コロナウイルスについても、電子顕微鏡がなければ、なぜ多くの人が味覚障害に陥ったり呼吸困難になったりして、大きな健康被害が出ているのかわからないままだったでしょう。 カメラも、シャッタースピードや絞り値(F値)、ISO感度を変えて人の肉眼ではみられない風景を切り取ります。ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンは、かつて写真について次のように述べています。 カメラに語りかける自然は肉眼に語りかける自然とは当然異なる。異なるのはとりわけ次の点においてである。人間によって意識を織りこまれた空間の代わりに、無意識が織りこまれた空間が立ち現れるのである。たとえば人の歩き方について、大ざっぱにではあれ説明することは、一応誰にでもできる。しかし〈足を踏み出す〉ときの何分の一秒かにおける姿勢となると、誰もまったく知らないに違いない。写真はスローモーションや拡大といった補助手段を使って、それを解明してくれる。こうした視覚における無意識的なものは、写真によってはじめて知られる。(※3) テクノロジーなしには人の能力は大きく制限されてしまいます。ここ何世紀もの間、自然科学の発見は、私たちが肉眼で知るスケールをはるかに超えてしまっています。生身の感覚だけではニュートリノもみつけられません。 自分の頭のなかではなく、私たちはテクノロジーと一体になって考えているということが、最近「拡張された心」という言葉でいわれはじめてきています。人の知を周囲との関係のなかで把握しようとする流れです。 ※3ベンヤミン、ヴァルター(1998)『図説写真小史』(久保哲司編訳),筑摩書房