太平洋戦争下の台所事情の実際は? 体験者が記憶する「畑だらけになった有楽町」
戦争は人々の日常を一瞬で奪い去り、食料や衣類などの物資不足という厳しい現実を突きつけました。物資がない中、人々はどのように暮らしをやりくりしていたのでしょうか。当時の様子を、昭和のくらし博物館館長の小泉和子さんにお話しいただきました。 昭和のくらし博物館で公開されている「昭和の食卓」
ある日突然、太平洋戦争が始まっていた
ある日突然、戦争が始まっていました。戦争は知らないうちに始まるんです。気づいた時にはもう身動きできません。あっという間に物資もなくなります。 アメリカがひどいとかいう話はずっと聞かされていましたが、まさか戦争をしようと思っているなんて誰も知りませんでした。昭和16年12月4日の朝、ラジオで「西太平洋において戦闘状態に入れり」と聞こえてきたことをいまも覚えています。父が台所で、大変だ大変だと言っていました。 知らないうちに戦争の準備はされているわけです。原爆だって、ある日の朝バーっと落とされていきましたよね。戦争ってそういうものなんです。 戦争の一番ひどいとき、私は小学5年生でした。そして6年生で終戦になって、それから戦後2、3年は、戦争中よりももっとひどいものでした。 戦争中は政府が機能していたけれど、戦後はガタガタでしたから。もちろん戦争中も配給は遅配欠配でこないことが多かったけれど、戦後はさらに物がなかった。戦後の方が、餓死者が多かったんです。軍人や高級官僚、地方の状況は少し違っていたようですが、普通の家庭はどこも苦労していたと思います。
家事に明け暮れた「戦争中の暮らし」
戦争中から戦後しばらくは、とにかく物がありませんでした。食料も、衣類も、全てがない。戦争に使われてしまうから何も売っていないんです。 配給でも衣類切符というものがありましたが、いまと違って当時の人たちは衣服をあまり持っていませんでした。特に困ったのは下着です。パンツを作るために木綿が必要でしたが、日本は輸入に頼っていたため、戦争が始まってから入ってこなくなってしまった。 そこで当時、小麦粉などの輸入品はメリケン袋という木綿の袋に入っていたので、仕方なくメリケン袋でパンツを作ることもありました。糸も布切れをほどいて作ったり...。石鹸も、マッチもありません。私の父はレンズで光を集めて、タバコに火をつけていましたね。 もちろん食べ物も何もありません。家庭菜園で野菜を作らないと食べていけなかったので、有楽町あたりの道はみんな畑になっていました。一般の人が勝手に耕して、道路の脇が全部畑になっていたんです。東京の真ん中辺りも、アスファルト以外の部分を畑にしてカボチャを作ったり...。 塩は、おしっこを藁にいれて、乾燥させて作るということをしていた人たちもいたようです。 お米は玄米のまま配給されました。当時の玄米はそのまま食べるとお腹を壊してしまいます。そこで一升瓶の中にお米を入れて棒でついて、ヌカを削ります。一升のお米を手で精米するわけですから、1日かかってしまうのです。 小麦粉も配給されました。小麦粉といっても、ふすまが入っているだけでなく、色々な葉っぱも一緒に乾燥させて製粉したものでしたから、美味しくはありません。けれどお米がこない時には粉を食べないといけませんでしたから、すいとんや団子にしていました。 すいとんは野菜をいっぱい入れるので、おかずがいらないんです。当時はすいとん食堂というお店があったので、鍋を持って買いに行くこともありました。 当時はおばあさんや、暇な人が食事の用意に1日中かかりっきりになっていました。ただ生きていくための、食べるか、着るかということで日が暮れてしまうんです。 私達の世代はこういった経験をしていますので、節約して生活している人が多いと思います。節約しないと生きられませんでしたから。私はいまでも裁縫をするときには、あまった短い糸でも針刺しにそのまま刺して、その糸で雑巾を縫うんです。勿体なくて捨てられないのです。