「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×毛利悠子―ピュシスについて」(アーティゾン美術館)レポート。静謐な空間で作品たちのさざめきに耳を傾ける
世界で注目される作家の東京での大規模個展
アーティゾン美術館の開館以降毎年開催している、石橋財団コレクションとアーティストとの共演、「ジャム・セッション」展。第5回目となる今回は、ヴェネチア・ビエンナーレ日本館での展示も記憶に新しい毛利悠子を迎えて開催されている。会期は11月2日~2025年2月9日。企画担当は同館学芸員の内海潤也。 本展の展覧会名は「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×毛利悠子 ―ピュシスについて」。「ピュシス」とは古代ギリシャ語で「自然」や「本性」を意味する言葉。初期ギリシア哲学では、「ピュシス」が中心的な考察対象になっていたそうだ。 「キネティックな要素のある作品やサウンドインスタレーションを作ってきた私と“自然”という言葉はかけ離れているように見えるかもしれませんが、私の作品では主に身近にあるもの、日用品を使いながら手仕事で“自然”を考えようとしていたのではないかという思いに行き着くことがあり、こういうタイトルにしました。まずは空間を体験してもらいながら自由に作品を感じてほしいです」(毛利) 今回は過去作を含めた毛利の7のプロジェクトが、コンスタンティン・ブランクーシ、パウル・クレー、クロード・モネらのコレクションとセッションする。気になる競演の様子を、いくつかピックアップして紹介したい。 会場入り口で人々を迎えるのは、毛利悠子《Decomposition》(2021-)。 ヴェネチア・ビエンナーレでも展示された本作は、生のフルーツに電極を挿し、読み取られた水分量のデータが音や電球に影響を与えるというもの。断続的に聞こえるオルガンの音色が、会場に足を踏み入れる前の精神統一に一役買うような、神聖な雰囲気をも感じさせる。会場備え付けのLEDパネルの明滅も同様にフルーツの状態に同期しており、空間全体に動きがもたらされているように見える。並置されるのは、ジョルジュ・ブラックが果物を描いた《梨と桃》(1924)。 入り口から広い空間へとつながる通路では、藤島武二《浪(大洗)》(1931)を展示。作家は今回、展示会場全体に広がる自作の個々の動きが、寄せては返す波のようになることを想像し、そのイメージとして本作を選んだ(*)という。 通路を経てもっとも広い空間に足を踏み入れると、すーっと視界が開く解放感を得た。ちょうど段差の上から複数の作品を見下ろすかたちになっており、壁も少ないため一覧性が高い。見晴らしの良い景観のなか、複数の作品がそれぞれに動いている様子に有機的な印象が残る。 published 作家が「これまで何度も作品を見て興味があり、シンプルにインスピレーションを受けた」と話すのは、 クロード・モネ《雨のベリール》(1886)。新たな題材を求めて旅に出たモネが、予定を超過してまで滞在したフランスの小さな島・べリールで描いた海の絵画だ。「実際に私も行って、なぜモネはここで作品を作った?と思うほどの足元の悪さに驚きました。同時に、(その場所で繰り返し絵画を描いた)モネのパッションも垣間見えました」(毛利)。 本作に対峙するのは、毛利がコロナ禍に様々な制約を受けたことで生まれた《Piano Solo》(2021-)から新作の《Piano Solo: Belle-lie》(2024)。実際にベリールで撮影された映像を含め、いくつかの映像にあわせスピーカーから流れ出る音をマイクが拾い、データとなってピアノに伝えられ、ピアノが自動演奏される仕組みだ。けっして明確なメロディやリズムがあるわけではない演奏は、絵画や映像を眺めながら聴いていると不思議に気持ちが落ち着く。本作をはじめ本展には音を発する作品が多く、会場内を歩いているとそれらの音が心地よく重なるポイントが現れるのも筆者としては楽しい時間だった。 展示室の中央付近に展示されるのは、毛利の《めくる装置、3つのヴェール》(2018-)。本作とセッションするのは、マルセル・デュシャンが箱の中に複数の作品レプリカを収めた「トランクの箱」のひとつとして知られる、箱型の作品《「マルセル・デュシャンあるいはローズ・セラヴィの、または、による(トランクの箱)」シリーズ B》(1952、1946)だ。箱の中央にはデュシャンの代表作「大ガラス」のミニチュアが見える。 対して、毛利の《めくる装置、3つのヴェール》(2018-)は、正面からではなく上から眺めるとちょうど「大ガラス」の構造になっているという、「大ガラス」を立体的に解釈した作品だ。「大ガラス」と同様、仕切りによって「独身者」と「花嫁」のスペースが分かれており、「独身者」で起こった通電によって「花嫁」のヴェールがゆらめく。「大ガラス」はこれまでに多くの人々が読み解いた作品だが、こうして異なる作品を通して解釈が提示されることは多くないだろう。毛利は本作について「欲望のサーキュレーションシステムが壁を超えてとんでいく」と解説。その「欲望」が会場のどこまで行き着いたかは、実際に確認してほしい。 開放感ある空間から一転、小部屋で密やかな競演を展開するのは、ジョセフ・コーネル《見棄てられた止まり木》(1949)と毛利悠子《鬼火》(2013-)。コーネル作品の繊細な佇まいと、《鬼火》のセンシブルなセッションはなんともロマンチックなもの。同空間にも椅子があるため、ゆっくりと空間に身を浸すことをおすすめしたい。 絶えず動きを見せ、方々から聴こえる音と作品同士の交歓。本展は一見すると静謐だが、空間にいればいるほど多様な運動がもたらされていることがわかり、毛利が目指す「波」のような展覧会であることが体感できる。ぜひその一部となる感覚で、様々な順路と見方で鑑賞してほしい。 *──展覧会図録51ページより
Chiaki Noji