地獄に鶏が描かれる「意外な理由」…国宝『地獄草紙』鶏地獄から見る日本人の「ニワトリ観」
『地獄草紙』に描かれる鶏
「炎を身にまとう巨大な鶏に罪人が踏み裂かれる地獄」なるものが、仏教にあることをご存じだろうか。 【写真】イギリスで日本の「カツカレー」が“国民食”になっている驚きの理由 鶏地獄とよばれるこの地獄は、平安時代末期、後白河法皇の命によって作られたとされる絵巻物『地獄草紙』に見ることができる。国宝に指定されているこの巻物の鶏は実に見事で、炎を吹き罪人を宙に散らす姿は、まるで鳳凰と見紛う姿である。ある種の神々しささえ感じられる。 本来、仏教における地獄とは自身の心や罪の意識が作り出す概念だったようだ。 つまり、鶏地獄の背景には、かつて「鶏」と自身の「罪」を結びつける、何らかの思想や常識、そして現代とは違う「ニワトリ観」があったことになる。それは一体何なのだろうか? 【前編】『地獄には鶏が描かれていた…現代では考えられない、古代の鶏の「神秘的な一面」』で見たように、古い時代、鶏は宗教や政治と結びつけられており、その動物的な「性質」が重要視されていた。
「罪」を自覚させる地獄の鶏
さて、このような鶏が地獄に見いだされた理由は、仏教の教えに反した人と鶏の関係を正すためであったと考えられる。 当時の人と鶏の関係の中で、闘鶏は仏教の教えに明確に反していた。暴力的で、時に鶏を死に追いやることもある闘鶏は、殺生を禁ずる仏教において許されざる行為であった。誰もがイメージできる「巨大な怪鶏に引き裂かれる地獄」というものを例示して、闘鶏をやめるよう説いたのだろう。 「地獄草紙」の鶏地獄には「生前に喧嘩を好み、また生き物をいたずらに傷つけたものがこの地獄に落ちる」と書かれている。この説明文からも、闘鶏をやめさせようとした仏教者の姿を想像することができる。 加えて、中国から日本に伝わり主流となった大乗仏教において、肉食はタブーであった。675年に天武天皇が仏教の教えに従い肉食を禁止する令を発布した。これは特定の期間のみ肉食を禁止するもので、肉食を完全に禁止したわけではなかったが、仏教の普及に伴い、徐々に日本でも肉食が忌避されるようになっていったようである。 しかしながら、肉食をいきなりやめることはできず、人々は変わらず鶏卵や鶏肉を食べ、それは貴族も同じであった。また闘鶏も同様に行われていた。 後白河法皇が生きた平安末期は、戦や疫病が立て続けに起こり、末法思想が流行する暗い時代であった。念仏を唱え、仏に祈れば極楽浄土に生まれ変わることができるという思想は、平安末期には広く普及しており、貴族たちは寄進をしたり、極楽を模した寺院を建立したりして、仏への信仰を示そうとした。 『地獄草紙』も、そのような信仰心を示すために作られたのだろう。しかしながら、『地獄草紙』に描かれた、鶏地獄を含むいくつかの地獄は、日本で広く普及した大乗仏教のものではなく、南インドから東南アジアで主流となった上座部仏教の経典「起世経」に書かれたものである。 なぜ「起世経」が選ばれたのだろうか。理由は多々あるだろうが、もしかしたら、後白河法皇は鶏地獄を見せたくて「起世経」を描かせたのかもしれない。仏教では明確に禁止とされながらも、変わらず肉食や闘鶏を愉しむ人々に対し「罪を犯している」ことを突きつける、一種の烙印としての機能を、身近な動物である鶏の地獄に期待したのではないだろうか。 そう思わずにいられないのは、鶏地獄の絵の見事さにあるようにも思う。暗闇に浮かぶギョロリとした鶏の目には、それを生み出した平安末期の人々の不安と恐れ、そして後ろめたい気持ちが滲み出ている気がするのだ。