「新生明治国家の旗印」初代神武天皇の謎にせまる
次の探求は「不可能なわけではない」
同じ年、12月3日が新暦(太陽暦)の明治6年1月1日と改暦され、神武天皇の橿原宮での即位の日(紀の「辛酉年春正月庚辰朔」)が布告された。しかし、翌7年から、紀元節は2月11日に変更された(1月29日は孝明天皇祭1月30日の前日なので、連続の祝日を避けた?)。 そして明治23(1890)年4月、畝傍山の東南に「橿原井」があることなどから、橿原宮跡地は畝傍山東南麓の畝傍村であると判断され、1万6000余坪の民地が買い上げられて神武天皇と皇后ヒメタタライスズヒメを祭神とする橿原神宮が創建された。 「しかし、神武天皇陵、紀元節、橿原神宮の場所や時期は、どれも今ひとつ根拠が薄弱ですね。現に明治18年に白野夏雲という人が、神武天皇陵に対する疑惑に、もし外国人が気づいたらどうするんだ、と危惧しましたよね?」 当時神武天皇陵を訪れたお雇い外国人のゴーランド(英国)は、後年考古学書に「(陵が)平地にあり、考古学的価値はない」と記したし、ヒッチコック(米国)も「石灯籠、鳥居、玉砂利の道では往時の純粋な簡素さがない」と同様に記述、白野の危惧を実証したのだった。 「うーん、日本の陵墓は中国と違い、被葬者名を記した墓標がない。そのために確証がなかなか得られないですよ」 古代の天皇陵に関しては、初代神武から第42代文武まで40基(2度の即位と合併葬のため)の陵のうち、確実なのは5基のみ、残りは被葬者が間違っているか不明、とされる。 短期間の「文久の修陵」では、錯誤や誤謬が相次ぐ結果となったのだ。 「でも天皇陵の学術的な調査はできない?」 「そう。宮内庁は陸墓を“皇室の信仰の対象”としていますから、学術的な立ち入り調査はできません。門前払いです」 ただ外山さんは、記紀の関連記述のさらなる研究や、史料のさらなる掘り起こし、別の角度からの再検討などにより、歴史学の立場からの次の探求が「不可能なわけではない」とも言う。 「何しろ、紀元節は昭和42(1967)年に“建国記念の日”として復活し、今日まで続いていますしね。平成28(2016)年には、神武天皇が崩御して2600年ということで、天皇・皇后(現上皇、上皇后)が神武天皇陵や橿原神宮に参拝されていますから」 象徴天皇をいただく戦後の日本にとっても、初代神武天皇は今なお重要な存在なのだ。
足立倫行