「疑わしき者はとりあえず捕まえる」…「犯科帳」に記録された「江戸の冤罪事情」
江戸時代の裁きの記録で現存しているものは、現在(2020年5月)、たった3点しか確認されていない。 【画像】1825年の出島の地図 その一つが、長崎歴史文化博物館が収蔵する「長崎奉行所関係資料」に含まれている「犯科帳」だ。3点のうちでもっとも長期間の記録であり、江戸時代全体の法制史がわかるだけでなく、犯罪を通して江戸社会の実情が浮かび上がる貴重な史料である。 「犯科帳」の中から、元文元(1736)年6月25日の日暮れ、小舟に乗って長崎港外の深堀郷に魚を買いに出かけた4人の男、喜右衛門、吉郎次、八郎次、清兵衛の事例を取り上げ、江戸時代の「裁きのリアル」を見てみよう。 【本記事は、松尾晋一『江戸の犯罪録 長崎奉行「犯科帳」を読む』(10月17日発売)より抜粋・編集したものです。】
「無宿」と一緒に船に乗っていただけで「不届き」
自供や状況証拠から罪の確認ができる場合はまだよいが、時にはできないこともある。 大坂南堀江の者で今は無宿(長崎生まれだが人柄が悪く親や親類などと義絶して、長崎内で親交のある者の所に身を寄せるなどして渡世を送っている者。あるいは、長崎ではない西国の、かつ幕領ではなく私領(大名領など)の生まれの者で、長崎に来て何らかの手段で渡世を送っている者)となっている喜右衛門は、元文元(1736)年6月25日の日暮れ、西築町の住人・吉郎次、同・八郎次、八幡町・清兵衛とともに小船に乗り、長崎港外の深堀郷に魚を買いに出かけた。しかし深堀では魚を得られなかったので、対岸の伊王島(長崎港から約10キロメートルの沖合に位置する島)に寄り、そこから長崎に引き返そうとしていた。 その様子を長崎港への出入りを監視する小瀬戸御番所の役人が見ていた。役人の目には彼らの小船が唐船に近づいているように見えた。それで4人を捕らえて奉行所に差し出した。船番は昼夜を問わず番所に詰めているものだが、それが十分に機能していたことを示している。 長崎の住人は、唐船に船を近づけてはならない、とりわけ夜分に近づくのは抜荷の企てと見なされることから厳禁と、たびたび命じられていた。だがこのように船を出さざるを得ない状況も、しばしばあったと思われる(『長崎代官所関係史料 金井八郎翁備考録一』三六~三八頁)。 吟味により、今回は唐船に近づくことが目的ではなかったことが確認された。しかし、喜右衛門は元大坂の者で宿もなく、船に住居して長崎を徘徊していることが明らかとなった。長崎の船や入港した和船には目印札が渡され、船の管理も町で行われていたが、管理を徹底することは非常に困難だった。 長崎奉行所は長崎だけでなく近国の浦に至るまで抜買(密貿易)を念入りに警戒していた。そのため無宿で船に住居している喜右衛門を疑わしく思った。江戸に喜右衛門の処分を確認したところ、薩摩(鹿児島県の一部)への流罪との判断だった。証拠不十分なのだから国元に戻すだけで済んだようにも思えるが、幕府は重罰を科す判断をしたのである。 注目したいのは、同船していた八郎次と清兵衛である。江戸の判断は、日暮れに唐船近くに小船を出し、のみならず無宿と同船していたのは不届きとして、過料二貫文。なかなか厳しい判断である。