「疑わしき者はとりあえず捕まえる」…「犯科帳」に記録された「江戸の冤罪事情」
何もしてないのに前科者というだけで入れ墨の刑
もう一人の同船者・吉郎次は少々事情が異なっていた。この人物は、享保一五(1730)年、豊後の商人・鶴崎清蔵の荷物について抜荷物だと偽りの告発を行った廉により、入墨の上、家財半分没収となっていた。今回は抜荷を企んだわけではなかったが、夜分に唐船の近くを通り、あまつさえ無宿の喜右衛門と同船していたのみならず、喜右衛門が上陸する時には宿を貸していたことが不届きだとして入墨が科された(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』(一)三二四~三二五頁)。 このように、何もしていなくても、前科者といっただけで厳しい処分を受けることもこの時代にはよくあった。また無宿との同席は本来ゆるされるべきことではなかったことが以上の事例からはわかる。 じつは喜右衛門たちが捕まった折、同様に伊王島に魚を買いに行き、日暮れ時、長崎に戻る途中で同じ小瀬戸御番所の役船に捕らえられた船があった。そちらに乗船していた大黒町の住人・宇右衛門には、享保一八(1733)年、唐船から蝋燭を抜買した廉で入墨の上、家財半分没収という前科があった。今回の件では疑わしいことはなかったが、日暮れに唐船に近づいていたことが不届きであるとして、ふたたび入墨が科された。 さらには、同船していた大黒町の善四郎と定吉の二人の自白から、意外なことが明らかになった。3月頃、唐人屋敷の乙名部屋の下小使を務めていた島原町在住の弥左衛門から、票を受け取っていたのである。 票とは、取引の品目や受け渡しの日時、方法、場所を記したもので、唐人との取引で使用する割符であった。唐船が入港したときには、その票を使って抜買をする申し合わせになっていた。捕まった25日も、たまたま同船に乗り合わせていた幸次郎にはこの話はしていなかったが、魚を買いに出かけた際、松島(長崎県西彼杵半島の西隣の島)沖で入港する唐船を見かけたので二〇間(約36メートル)ほど泳いで唐人に声をかけようとしていたところを捕まったということであった。 まさしく抜買を実行する直前であり、唐人からは何も買い取っていなかったが、抜買を目論んで票を懐中に入れて持ち歩いていたのは不届きとして、入墨の上、家財半分取りあげとなった。自業自得としか言いようがない。 運が悪いのは、たまさかこの船に乗り合わせていた幸次郎である。同船者の思惑などまったく知らなかったのに、唐船の近辺を航行したことが不届きだとして彼にも過料・二貫文が科された(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』(一)三二五頁)。 *
松尾 晋一(長崎県立大学教授)