高円寺はどのようにして「古着の街」になったのか?
東京を代表する「古着の街」である高円寺。駅の改札を出て30秒ほど歩けば古着屋に辿り着くくらい、古着カルチャーが色濃い街です。今回はそんな高円寺が、どのような変遷を経て今のような古着の街になったのか。そして、今後どのような街になっていくのか。歴史的な視点で紐解きました。 【写真】1975年に高円寺で開業したライブハウス「JIROKICHI」
中央線がサブカルチャーエリアになった理由
東京に馴染みがある人なら、東京を走る鉄道の路線ごとになんとなくのイメージを持っているのではないでしょうか。高円寺駅があるJR中央線、特に新宿駅から吉祥寺駅の間に位置するエリアに対し、「サブカル(サブカルチャー)」のイメージを持っている人は少なくないと思います。では、そのイメージはどのようにして生まれたのでしょうか。 中央線の前身である甲武鉄道が開通したのは1889年。当初、中央線が結んでいた新宿と立川の間には、中野と荻窪の2つしか駅がありませんでした。高円寺を含む中央線沿線の街が発展するきっかけとなったのが、1923年に起こった関東大震災です。震災によって東京市中が焼失したため、比較的被害の少なかった東京西部に人口が移動しました。 第二次世界大戦後の中央線沿線は地価が安かったため、新進のクリエイターたちが住むようになりました。「君死にたまふことなかれ」の歌で知られる歌人の与謝野晶子や、昭和を代表する漫画「のらくろ」を描いた漫画家の田河水泡、女性や菩薩の板画が有名な版画家の棟方志功など、枚挙にいとまがありません。彼らが住まう場所の周辺には、クリエイターたちが集うたまり場も生まれます。阿佐ヶ谷にあった中華料理屋「ピノチオ」では、「山椒魚」で知られる小説家の井伏鱒二を中心に、尾崎一雄や太宰治らで結成された文人会「阿佐ヶ谷文士会」がツケで飲み食いしつつ、将棋を楽しんだり、文学談義に興じたりしていたそうです。このようにして、徐々に中央線沿線はサブカルチャーの色合いを強めていきました。
高円寺=音楽の街を決定づけた吉田拓郎
その後、1950年代には映画、1960年代は演劇にジャズと、それぞれの時代を彩ったサブカルチャーに引き寄せられた若者たちが、中央線沿線に集まるようになります。そして、中央線=サブカルチャーのイメージをさらに強めたのが、1970年代以降のフォーク、ロック音楽の隆盛でした。中央線沿線のなかでも、特に高円寺にはロック喫茶やライブハウスが増えていきました。 そんな高円寺が、音楽の街として全国的に知名度を高めるきっかけとなったが、吉田拓郎の楽曲「高円寺」です。1972年に発売されて大ヒットした吉田拓郎のアルバム「元気です。」に収録されたこの曲は、彼が育った広島から上京した際に、高円寺近辺に住んでいたことから生まれました。たった1分30秒の短いラブソングでしたが、当時の若者たちに及ぼした影響はかなり大きく、音楽好きの若者にとって高円寺は憧れの街になりました。イラストレーターのみうらじゅんさんは、当時のことを振り返り、こう語っています。 「僕、高円寺にはフォークやロックのディズニーランドがあると思ってたんですよ。拓郎さんの『高円寺』、友部正人さんの『一本道』を聴いて、フォークの人は高円寺か阿佐谷に住むものだと信じてた。(「中央線 カルチャー魔境の歩き方」より引用)」 高円寺に音楽文化が根付いたことにより、中古レコード店や貸しスタジオ、楽器を鑑定できる質屋など、音楽に関連する店舗や施設も増えていき、それに惹かれる若者たちがますます高円寺に集まるようになりました。 とはいえ、フォークシンガーのなぎら健壱さんによると、中央線沿線に集まっていたのは、音楽を愛好する若者たちだけではなかったようです。 「ただね、中央線ってフォーク、音楽だけじゃないんですよ。まず、中央大学とか明治大学に出やすい列車が中央線でしょ。でも、御茶ノ水の周りとかあの辺だと、下宿やアパートが高いから。そういうことで、中央線沿線で吉祥寺あたりまで下って、みんなが暮らしてたから。 当時の吉祥寺ってもう田舎ですから。すごい家賃が安かったんですよ。だから、自然に中央線界隈に暮らす若者が多かったんですよ。音楽に限らず、演劇、芝居の連中とかですね、どちらかと言うとクリエイティブなものやってる人たち、漫画家とか、やっぱりすごく多かったですね。(「たのしい中央線5」より引用)」 このように、若者が多く住む中央線沿線のなかでも、高円寺は特に音楽カルチャーが色濃い街になりました。