芥川賞受賞『バリ山行』作者・松永K三蔵さんが、日常のすぐ横にある「死の可能性」を描いた理由。「巨大なシステムや資本の前に個人は非力だけど…」《インタビュー》
「バリ」をする妻鹿(めが)が象徴するもの
――物語では「バリ」をする妻鹿と、普通の登山道を行く主人公の波多をはじめとする同僚たちが対峙する存在として出てきます。妻鹿と波多は同じ会社で働くベテラン社員と後輩社員ですが、社内で孤立しがちな妻鹿に対し、波多は苦手な会社付き合いを克服しようとする中途入社社員。意図的に対峙させたのですか? 松永:異物としての妻鹿、どこにでもいるような波多、対峙は自然に発生しました。意図的で言えば、「バリ」という行為自体がアウトロー的で、当然このご時世では「山を舐めるな」とかいろいろ批判されたりもするものなんです。この小説では、妻鹿や波多と同じ会社で登山部メンバーの松浦が批判をする側の象徴として出てきますが、そういうふうに「枠」というものを提示しないと、「枠から外れる」っていうことが生きてこないので、そのような対立軸は必要だと思いましたね。 ――妻鹿という存在はすごく象徴的ですね。「登山ルート」ってちょっと人生に繋がるというか、決まった道を歩むことを選んでいると、それを外れることへの憧れがくすぐられます。冴えない中年男性というのがまたいいですし。 松永:そんなキャラは本当にいるのかって周りを見ると、冴えなくて目立たないけれど、何かやってる変な人、ズレていく人っているんですよね。SNSで感想をいただいたりするんですが、「自分は妻鹿だな」っていう人がいたり、「妻鹿じゃないけどわかる」っていう人がいたり。働いている方の8割以上がサラリーマンだと思うんですが、組織や、いろんな関係の中で折り合って生きてる人が抱く、独力でやっていく人に対する憧れと反発なんだろうなと。 ――作者としては、妻鹿は何を思ってバリをしていたと思いますか? 松永:いろいろ考えるんですが、実は僕もわからないんですよね。妻鹿自身「楽しいから」と言ってましたけど、もしかすると本当に何も考えてなくて、ちょっとイッちゃってるタイプなのかもしれないし、そういう人間の不思議さみたいなのも面白いなと思うんです。あのラストをどう捉えるかは人それぞれですが、それでも自分自身のやり方を貫き通す妻鹿の力強さにある種のハッピーエンド的なものを見る人もいれば、逆に狂気に近い見方もあるでしょうし…ただ、やっぱり妻鹿さんは登っててほしいって気持ちもあります。 ――そうですね。登っててほしいなと思います。 松永:僕自身はグチグチ考える方なんで、どっちかといえば登山ルートを行く波多寄りで。だからこそ妻鹿さんみたいな人に憧れるし、彼の持つ彼岸の感覚みたいなものに嫉妬するし反発もする。低山だって下手したら死にますからね。 ――身近な山でも命ギリギリみたいなことって十分あり得るし、「生」の実感が得られることをあらためて感じましたね。 松永:六甲山って本当に街と接していて、登山口も至る所にあります。それこそ新幹線の新神戸駅を降りたら即登山口があるくらい、街と山が隣接してるんです。日常を一枚めくれば、やっぱり非日常というか簡単に死ぬ危険がある、そういうリアリティがあるんです。だから軸はずっと日常に置いたままで、でも山に入ると自然に死に直面するっていう、そのスライド感も描きたかった。ちょっと位相を変えるだけで違うものが見えてくるってすごくわかりやすく教えてくれますからね。 一方で六甲山って上に道路が東西に走っていて、ホテルもあればレストランや遊ぶ施設もあって、もう街なんですよ。だからいくら妻鹿がその中で命がけでどうのこうのやったって、所詮は街中でしかないわけです。そこが六甲山の皮肉なところなんですが、そういう「街」であったり「システム」であったり、ルールの強固さみたいなところは意図的に書きましたね。 ――確かに、神の視点じゃないですが、街の仕組みという上位の概念があって、それは絶対に破れない…。 松永:破れないんですよね、結局「バリ」とかなんだとか言ってみたところでね。物語の中では、大手の元請けの道を選択した中小企業(注:主人公たちの勤める会社)の行方がどうなるか明かされてませんけど、なんだかんだで、元請け会社からは再び発注が入り、「やっぱり資本よな」という台詞も出てきます。結局、個人の力の限界というか、寄らば大樹の陰というか、その虚しさや個人の頼りなさの中で実は我々は生きているわけですよね。それを打ち破るヒーローものならカッコよくて爽快かもしれないけど、そうじゃない。所詮は巨大なシステムや資本の前には個人の成し得る力って限られている。でも、「それでも生きていく」っていう。 ――それが生きるっていうリアリティですよね。なんかもう悔しいですけど。 松永:大人はみんな知ってるんですよ。「そこは破れないな」っていうことを。勝てないということを。でも、その虚しさを無視するんじゃなくて、その虚しさを知りながら、やる。それでもやる。だから妻鹿さんにはやっていて欲しい。妻鹿さんの言う、やるしかないんだよっていうところですね。