異色の経歴を持つ俳優・宮田佳典。看護師として10年…手塚治虫さんの言葉をきっかけに転身「夢はいくつあってもいい」
救急看護師として約10年の実務経験を経て、俳優を目指し活動をはじめた宮田佳典(みやた・よしのり)さん。 【写真を見る】企画から立ち上げた映画の公開を控える俳優・宮田佳典さん 映画『あゝ、荒野 後編』(岸善幸監督)、短編映画『ヴィニルと烏』(横田光亮監督)、連続テレビ小説『まんぷく』(NHK)、『ボイス 110緊急指令室』(日本テレビ系)などに出演。第80回ベネチア国際映画祭で銀獅子賞(審査員大賞)をはじめ、多くの賞を受賞した映画『悪は存在しない』(濱口竜介監督)が公開中。 2024年9月27日(金)には、俳優・佐野弘樹さんとともに企画から立ち上げた映画『SUPER HAPPY FOREVER』(五十嵐耕平監督)が公開される宮田佳典さんにインタビュー。
小学校6年生でオーディションに
大阪で生まれ育った宮田さんは、小さい頃から元気いっぱいで常に動き回っているような子どもだったという。 「母親には、『まったくじっとしてない子どもだった』ってよく言われていました。本当にずっと動き回っていたみたいで、外食ができなかったって。その影響か、今でもよく動き回っていますね(笑)」 ――その頃は将来何になりたいと思っていたのですか? 「小さい頃はバスケットボールの選手です。6歳上の兄にちょっと憧れていて、兄がバスケットボールをやっていたので、その影響でバスケットボール選手になりたいと思っていました」 ――小学生のときに劇団のオーディションを受けたこともあるとか。 「そうなんです。母親に買い物に行くと言って連れていかれた先が劇団東俳のオーディション会場だったので、びっくりしました。でも、オーディションを受けて、そのとき4次審査まであったのかな。 一応受かったんですけど、一緒に暮らしていた祖父が結構固い仕事をしていたので反対されて。小学校6年生のときの文集には『役者になりたい』って書いたりしていたんですけど、そこで諦めて。そこからは色々考えて看護師の道に進みました」 ――看護師さんを目指すきっかけは何かあったのですか? 「母親が病院の受付をしていて、兄も放射線技師だったんです。それで兄にも『看護師は今人が少ないので就職もできるぞ』って。祖父も『手に職をつけるように』とよく言っていたので、その影響で看護師になりました。 そこで役者になりたいということは、1回はきれいに忘れていましたね、完全に。看護師になってからは救急で、カッコいい大人になりたいみたいな感じでした」 宮田さんは、JPTEC(外傷病院前救護)インストラクターとICLS(二次救命処置)インストラクターの資格を取得する。 「男性の看護師は少なかったんですけど、すごく尊敬する先輩がいて。その方が救急のスペシャリストで、街中でも急病人を助けて新聞に載ったりするようなすごい方だったので、僕も資格を取ることにしました。救急車の隊長を目指す人とかに教えるというか、そういうインストラクターの資格で、実技とか筆記もあるんですけど、結構難しくて通るのが大変でした」 ――約10年間看護師さんとして勤務された後、俳優の道に。 「はい。そうですね、東京に来てからも役者をやりながら病院で働き、計10年以上になります。当時大阪の病院付属の専門学校を卒業して病院勤務も4年くらい経ったとき、たまたま見ていたバラエティ番組で手塚治虫さんが、『夢はいくつあってもいい』と言っていたということを知って。 僕にはそういう考えがまったくなくて、看護師になったら看護師一筋で生きていくんだという感じだったんです。でも看護師の免許も取り、ほかに色々救急の資格も取ったので、人生一度きり、幼い頃からの夢だった俳優を目指したいと志し、挑戦に踏み切りました」 ――ご家族には何か言われました? 「あまりよく覚えてないんですけど、『チャレンジしてみたら』みたいな感じで応援してくれていました。そのときはもう反対していた祖父も亡くなっていたかなと思います。今はきっとどこかで応援してくれているかな」