飲みニケーションは必要か不要か? 議論で語られない管理職の“決定的な欠点”
冷静に考えれば「酒を飲む」だけの話
上司の言うことは正しいのでウンウンとうなずいて聞くしかない。「それはちょっと違うんじゃないすか」などと口答えをすれば、場の空気も悪くなるし、場合によってはこっちを論破しようと上司の演説をいたずらに長くしてしまうのだ。 しかも、「新人」「部下」なので注文やらで気を使わなくてはいけない。何も動かないと「お前、そういうところが仕事でもダメなとこだぞ」なんて怒られる。 楽しくもないし、何か自分のキャリアで得られることもない。帰宅したらドッと疲れが出て、「あの時間ムダだったな」と後悔しかないだろう。 もちろん、多少のメリットもある。酒に付き合えば、上司から「オレに従順なヤツ」だと目をかけられ、業務配置や人事で多少の優遇を受けられる。組織内のゴシップにも詳しくなる。 ただ、そうなってくると、ますますこの酒席は「業務」に近い。なにも自分のサイフを痛めて、貴重なプライベートを犠牲にしてまでやらなくてはいけないことなのか。こうした疑問は当然、浮かんでくるだろう。しかも、終身雇用という制度が崩壊した今、この会社にいつまで世話になるかも分からないのだ。 「これって何か意味あんの?」とむなしくなる人が多くなるのは、人間の感情として至極当然だ。 これはビジネスの世界「あるある」だが、「飲みニケーション」というパワーワードだけが一人歩きして、いつの間にか「日本型組織でなくてはならないチームビルディング手法」のように語られてしまっている。しかし、冷静に考えれば、それは単なる「酒を飲む」行為に過ぎない。
大切なのは「人間関係」ができているか否か
「酒を飲む」くらいで、チームビルディングやマネジメントのさまざまな問題が解決されるのなら、世界中のオフィスで酒盛りが行われているはずだが、そんなことになってはない。 確かに、日本のサラリーマン社会では、周囲と打ち解けられない問題社員と飲みにいったら分かり合えたとか、飲み会をやったらバラバラだったチームが一つにまとまった、というようなサクセスストーリーが常識のように定着している。 しかし、それはあくまでその飲み会を主催した側や管理職側、あるいは楽しめた人たち目線の話に過ぎない。本当はイヤだけどみんなが行くから仕方なくとか、場を乱したくないのでノリに合わせている、という同調圧力に屈している人もたくさんいるのだ。 要するに、われわれは「飲みニケーション」という言葉の響きに惑わされて、会社の飲み会や上司と飲みに行くことの効果を「過大評価」してしまっているのだ。 これは個人的には「ビール会社のCM」の影響も大きいと思っている。有名俳優や人気タレントがうまそうにビールを飲んで、その場にいる人みんなが全て笑顔になって、ハッピーになるという描写が多い。 広告表現なのでしょうがないが、現実の酒席はそんなきれいごとばかりではない。おいしいのは最初の一杯だけで、悪酔いして口論になったり、下世話な話になったり、誰かの悪口・陰口で盛り上がることもある。「酒」には悪い面もたくさんあるのだ。 そういう現実を踏まえたら、「会社で飲み会はアリかナシか?」「上司と飲みに行くことの是非」なんて議論はナンセンスではないか。 会社が終わってからも話をしたい人とは飲みに行くし、そうではない人とは飲みに行かない。それだけの話である。 これまでのお酒ライフの中で「ああ、あの時は本当に楽しかった」という酒席を思い出していただきたい。ほとんどは気の知れた友人・知人などと酌み交わしたときではないか。