大隈重信邸の前で「慶應バンザイ!」に早大生が“激怒” なくなりかけた早慶戦は「明治大学」のおかげで復活した(早慶のライバル史)
早慶戦の歴史は古く、はじまりは明治時代まで遡るが、じつは20年間も行われていない期間があったのをご存知だろうか? 慶大関係者が大隈重信の屋敷の前で「慶応、万歳!」と叫び、早大生がキレたことをきっかけに絶交状態となっていたのである。その後、間を取り持ったのが明治大学だったというのだが、どういうことなのだろうか? ■早稲田から「教えを乞う」形ではじまった早慶戦 日本を代表する私立大学である早稲田大と慶応大が「永遠のライバル」だと謳われるのは、春と秋の年2回行われる「早慶戦」の影響かもしれません。説明するまでもなく早慶戦とは明治36年(1906年)に開始され、現在にまでその伝統が続く、慶応と早稲田大学野球部による公式試合です。 早大よりも早い時期から、ベースボールこと野球のトレーニングを開始していた慶大野球部に、伸び悩む早大野球部が教えを乞う形で始まった事実は案外知られていませんが、それにしてもなぜ、早大野球部は慶大野球部を対戦相手に選んだのでしょうか。 当時の東京では、東京大学の前身である第一高等学校でも野球が盛んにプレイされていたことが知られています。ここで現在の東京六大学の野球リーグ試合について少しでも知っている方は、「万年最下位が東大だから……」と思ってしまうかもしれませんが、明治初期の東京の大学において、実は第一高等学校こと一高(いちこう)は最強校、つまり不動のチャンピオンでした。それゆえ、早稲田の野球部も実力差がある一校ではなく、追いつけそうな目標として慶応に接近したのではないかとも考えられるのですね。 ちなみに慶応野球部が一高に練習試合を依頼したとき、「依頼文の書式がなってない」と書き直しを命じられたり、審判も自分たちに有利な判定をする人物を一校側で選定するという条件まで呑ませられたことは有名で、早稲田としては、強いけれどプライドが高くてめんどくさい一高には近づきたくなかったのかもしれません。 早慶は創立者――大隈重信(早大)と福沢諭吉(慶大)も友人同士でしたし、生徒も気質的に惹かれ合ったらしく、早慶戦が秋と春の年2回の定期イベントになったのは、明治36年(1906年)に最初の早慶戦が行われ、9-11で慶応野球部の勝利が決まった直後のことでした。 明治38年(1908年)の早大野球部アメリカ遠征を挟んで行われた明治39年(1909年)第3回「早慶戦」では、会場の早稲田のグラウンドに5万人もの観客がつめかけ、両校の学生たちの応援合戦も白熱する一方でした。しかし、その強すぎた情熱が事態を悪化させたのです。 ■大隈重信の家の前で「慶応、万歳!」と叫んだ慶應生に、早大が激怒! 1回戦は慶応の勝利に終わりましたが、慶大関係者が大隈重信の屋敷の前で「慶応、万歳!」と大声を上げたことに、早大生が激怒しました。その5日後、今度は慶大の網町グラウンドにおける2回戦で早稲田が勝利すると、早大生たちが福沢諭吉の屋敷前で「早稲田、万歳!」とやり返しています。 決勝戦が近づくほどに両校生たちはお互いを激しく敵視し、あまりに不穏な空気が噴出しているのを危惧した大学関係者は、決勝戦中止の決定を出すに至りました。 こうして開始からわずか3年目にして、しかもトラブルの末に中止となった早慶戦ですが、なんと次に開催されたのは、大正14年(1924年)秋のこと。つまり20年もの間、一度も開催されないままだったのです。 早稲田大学野球部から慶応大学野球部には、早慶戦再開を求める手紙が送られていたそうですが、慶応はこれを完全無視しました。ついに早大がキレて、絶縁状を送付。明治末の一時期、慶応と早稲田はライバルどころか、絶交状態だったのです。 しかし大正時代になると、明治大学野球部の台頭が目立つようになり、大正3年(1914年)には慶応、早稲田、明治大の三大学野球部によるリーグ戦が開始されました(後の六大学リーグの前身)が、驚くべきことに、リーグ戦なのに、早稲田と慶応の野球部は絶対に戦わなかったのです。 ■明治大学のおかげで早慶戦は復活した 最初は明治側も大目に見てくれていましたが、いつまでも早稲田と慶応は戦わないまま。明治だけが両校と戦うというあまりに不自然な試合構成でしたから、ついに大正13年(1924年)、明治大が声をあげました。 「慶応と早稲田は戦わないというのなら、二校とも大学リーグを抜けてくれ」と通達したのです。野球部同士の問題というより、両校OBで大学のパトロンたちが勝手に反目し、試合をさせない方針を固めさせていたからのようですね。 こうしてようやく両大学野球部は試合再開にむけて動き出し、翌・大正14年(1925年)に早慶戦も復活したのでした。 そしてそれから101年、太平洋戦争末期の3年間を除き、早慶戦は中止されることなく行われつづけ、東京の新しい伝統行事となりました。それも明治大が間に立ってくれたからの話ですね。本当の意味で早慶の盟友といえるのは、明治大学なのかもしれません。
堀江宏樹