【プロ1年目物語】プロ初登板ノーヒットノーランの快挙も3年目以降は1勝もできず…悲運のサウスポー近藤真一
8年間の太く短いプロ生活
その完璧すぎるデビューの記憶は、やがて伝説となり、同時に足枷にもなった。背番号1に変更した2年目の88年には24試合(110回)で8勝7敗、防御率3.44。前半戦だけで7勝を挙げ、チームは6年ぶりのリーグ優勝を飾る。高卒2年目の先発投手としては決して悪い数字ではないが、ルーキーイヤーの輝きが強烈だっただけに後半の失速は物足りなさばかりが残った。それ以降の近藤は故障との戦いに終始する。3年目の89年5月にはロサンゼルスで左肩の手術、91年オフには左ヒジのトミー・ジョン手術と満身創痍で、球速は全盛期より10キロ以上落ちて130キロ台前半がやっとだった。真一から真市へ改名して、打者への転向も考えるなど最後まで必死にあがいたが、3年目以降は勝ち星を挙げることができず。最後は94年秋季キャンプのテストも兼ねたシート打撃で若手にいいように打たれて、引き際を悟った。すでに一度目の監督の座を退いていた星野に引退の意思を報告すると、「あれだけの記録を作ったのだから、ピッチャーの近藤で終われよ」と背中を押されたという。まだ26歳の若さだったが、94年限りで現役引退。8年間の太く短いプロ生活だった。 「あの1年(1987年)だけはプロっていいなあと思いました。残りの7年はホント苦痛でしたね。ケガしなかったら、どれぐらいできただろうなと思ったこともあります」(ベースボールマガジン2022年4月号) 近藤は中学時代から、カーブを多投したため慢性的な左ヒジ痛に悩まされ、体の硬さが故障に繋がると指摘されていた。中日もそれを分かった上で、慎重に体力作りからスタートさせている。最初の1年間はじっくりファームで育てるはずだったが、闘将・星野が打倒巨人を託したくなる才能の煌めきが18歳のサウスポーにはあったのだ。通算52試合で12勝17敗。キャリア晩年は一軍での登板そのものが激減しており、その生涯成績を知るファンは決して多くはないだろう。だが、37年前のあの夏、ナゴヤ球場で躍動したプロ1年目の近藤真一の奇跡のようなデビュー戦は、今なお多くの野球ファンに語り継がれている。 文=中溝康隆 写真=BBM
週刊ベースボール