【プロ1年目物語】プロ初登板ノーヒットノーランの快挙も3年目以降は1勝もできず…悲運のサウスポー近藤真一
巨人ベンチも先発は右の鈴木と読んで、スタメン野手に5人の左打者を並べていた。近藤はプレーボールがかっても、マウンド上で足の震えが止まらなかったという。いかにも気の強そうな風貌をしたゴールデンルーキーも、素顔はエビフライが大嫌いで、中森明菜の熱烈ファンで、趣味は長電話とショッピングという普通の18歳だった。緊張と恐怖が頭の中を支配する。1987年8月9日18時20分、巨人の先頭打者・駒田徳広に投じた第1球は高めに浮くボール球になるが、駒田はボールに手を出してファウルとなる。これが運命を左右する一球となった。 「気持ちがすごく楽になったんです。マウンドに上がったとき、何が一番心配だったかと言えば、笑われるかもしれませんが、ストライクが入るかなということでした。それほど緊張していたんです」 結果的に先頭の駒田を143キロのストレートで三球三振に打ち取り、この夜は長い球史でも特別な試合となる。週べ1987年8月24日号に掲載された、近藤と対戦した巨人打者のコメントは以下の通りだ。 クロマティ「あれでルーキーか? グッド・ピッチャー」 中畑清「打てそうで打てなかった。あのカーブだな、問題は……。三振? フォークボールのようだった」 原辰徳「ぼくにはあまり内角を攻めてこなかった。カーブにやられたねえ。ノーヒットノーランをくったのなんて野球をやってはじめてだ」
プロ野球史上初の快挙を達成
20時53分、最後は篠塚利夫からカーブで見逃し三振を奪いゲームセット。両手を突き上げ、派手なガッツポーズを決めたルーキー近藤の投球内容は、116球を投げ13奪三振、2四球、1失策。9回を投げきり、1本のヒットも許さなかった。つまり、近藤真一はデビュー戦でノーヒットノーランを達成したのである。プロ野球史上55人目、67回目(当時)の快挙だったが、もちろんプロ初登板での達成は史上初。18歳11カ月は、金田正一の18歳1カ月、沢村栄治の19歳7カ月という伝説の投手たちの十代ノーヒットノーランと比較された。 そして、週刊ベースボール1987年8月24日号の表紙は、発売3日前に急遽「やった! ルーキー近藤(中日)巨人をノーヒットノーラン」に差し替えられる。バッテリーを組んだベテラン捕手の大石友好は 「特に右打者の内角へのカーブがよかった。途中から自分でサインを出してくるんだから大した男ですよ」 とそのハートの強さに舌を巻いた。2本のホームランを放ち、ルーキーを援護した四番の落合博満は、終盤の8回と9回に三塁手として3つのゴロを処理したが、「あれほど緊張して守ったことはないよ」と試合後に安堵のコメントを残している。 鮮烈デビューを飾ったニュースター近藤は、8月23日の阪神戦でも1安打完封勝利のあわやパーフェクト投球。19歳の誕生日を迎えた9月は一時期、勝ちから見放されるも、30日の巨人戦でまたも完封勝利と一躍時の人となる。1年目は11試合(58.2回)で4勝5敗、防御率4.45。それでもノーヒットノーランを含む3完封のインパクトは凄まじく、中日は2位に終わるも、契約更改では150パーセントアップで年俸400万円から一気に1000万円プレーヤーへ。大晦日の紅白歌合戦にも審査員として呼ばれるバラ色のオフを過ごした。 「でも、希望だった中日への入団、そしてノーヒットノーランの2つで僕の運は全部使い果たしてしまいましたね」(週刊ベースボール2000年12月11日号)