【プロ1年目物語】プロ初登板ノーヒットノーランの快挙も3年目以降は1勝もできず…悲運のサウスポー近藤真一
だが、1987年の1月、合同自主トレに参加した近藤を待ち受けていたのは、減量指令だった。地元の祝福ムードの中で満足な練習もせずに数カ月を過ごしたため、10kg近くもベストの体重を超えていたのだ。それからは春季キャンプでも走り込みメニュー中心の日々。身長183cmの大型左腕は、上体の力に頼ったフォームが故障の危険性も度々指摘され、中日も金の卵をまずは焦らずじっくり育てるスタンスだった。 3月12日には、地元でのロッテ相手のオープン戦に顔見せ的に先発して2イニングを投げることもあったが、開幕は二軍スタート。4月中に岡山県玉野市で基礎体力づくりが目的のミニキャンプを敢行する。しばらく本格的な投球はせず、ランニングやウエートトレーニングに励み、たまにマウンドに上がると打撃投手を務めた。ウエスタン・リーグでのデビューは6月17日の阪神戦で、2回1安打無失点。6月28日の阪急戦では、享栄高時代の同級生でドラフト5位の長谷部裕とバッテリーを組み、6回2失点でウエスタン初勝利を挙げた。当時の週べ「こちらファーム情報局」コーナーには、稲葉光雄二軍投手コーチの「まだまだ時間はかかります。じっくりと育てますよ」という慎重なコメントが掲載されている。
「池さん、高校生がおるだろう」
同期のドラフト3位右腕・西村英嗣をライバル視して、自身の帽子に「打倒西村」と書き込んでみせる負けん気の強いドラ1左腕(なお同年2位は愛工大名電高の大型捕手、山崎武司である)。近藤は夏場までにウエスタンで7試合に投げて3勝0敗、防御率1.29。8月4日の南海戦では、2安打9奪三振の初完封を挙げた。その頃、一軍の星野中日は首位の巨人を僅差で追っていたが、8月7日からナゴヤ球場で巨人三連戦が組まれていた。その9日の3試合目がローテーションの谷間だったのだ。前日の8日夜、試合後の風呂場で池田英俊投手コーチが「監督、明日の先発がいません」と伝えると、星野はこう答えたという。「池さん、高校生がおるだろう」と。 実はこの8日に近藤は初めての一軍昇格をしていたのだ。そして、翌9日の試合前練習を終え、背番号13がベンチに戻ったタイミングで池田コーチが、「きょう投げてみるか」と話しかける。「えっ、ホントに……ですか」なんて絶句する18歳のサウスポー。極度の緊張に襲われ、プレーボールまでの2時間がやたらと長く感じられた。 「前日に一軍に呼ばれたばかりでしたし、それも戦力ではなくて、自分の中ではお手伝いとして呼ばれたという感覚だったんです。僕はこの日の先発は鈴木孝政さんだとばかり思っていました。まさか自分が先発するなんて、とてもじゃないけど思っていませんでした。投げてみたいと思う反面、こんな大事な時期(首位巨人と3.5差)に、自分なんかが先発していいのかという気持ちでした」(週刊ベースボール2000年12月11日号)