300年間沈黙の富士山 巨大地震で噴火誘発か?
一転して“山腹割れ目噴火”に
2000年秋の低周波地震の急増をきっかけとする集中観測、その後の大学や研究機関の各種調査・研究によって、富士山の構造や噴火の歴史について次のようなことが分かってきた。 ・富士山は10万年前まで噴火活動していた「小御岳(こみたけ)」の上に「古富士火山」が重なり、さらに1万年前からの活動でできた「新富士火山」が重なって現在の姿となった3層構造だと考えられていたが、小御岳の下にさらに20万年前まで活動していた「先小御岳」が存在する4層構造の成層火山であること ・新富士火山では初~中期には山頂や山腹から噴火していたが、2200年前の山頂噴火を最後に、その後は山腹の全方位に新しい割れ目火口を作って噴火する“山腹割れ目噴火”を40回以上繰り返していること ・特に西暦1000年ごろ(平安時代)には山腹割れ目噴火が集中し、北山頂と南山腹の両側での南北同時噴火が起きていたこと ・富士山のような粘り気の少ない玄武岩質溶岩では起きないとされる「火砕流」が、山頂西側の斜面で発生していたこと。この付近斜面の傾斜角度は34度以上あり、斜面で安定を保つ最大角度32~33度よりも急斜面であることがその理由として考えられる
最後の噴火は「宝永大噴火」
古文書などが残る歴史時代の富士山(新富士火山)の噴火は、確実なものでも10回記録されている。中でも最大のものは平安時代の864年(貞観〈じょうがん〉6年)6月(太陽暦表記、以下同)に起きた「貞観噴火」だ。これは山頂の北西山麓にできた割れ目火口列からマグマが噴出して流れ、一部は当時「せの海」と呼ばれていた大きな湖を分断して「精進湖」と「西湖」を作った。噴火活動は866年初頭まで続き、広大な溶岩流の上に現在広がるのが「青木が原の樹海」だ。 もう1つの巨大噴火が1707年(宝永4年)12月16日に南東斜面で発生した「宝永噴火」だ。これは溶岩流出が主だった「貞観噴火」とは異なり、溶岩流出のない爆発的な噴火で、大量の軽石やスコリア(岩さい)、火山灰などを噴出した。これらは偏西風に乗って南関東一円に降り積もり、江戸の市中には火山灰が厚さ2~4センチほど積もった。茨城県・霞ケ浦の湖底や、さらに遠方の鹿島灘の沖合の海底からも当時の噴出物が見つかっているという。宝永噴火は消長を繰り返しながら16日間続いた。富士山の噴火はこれを最後に起きていない。