市民権を得たプライドパレード、30年前日本で始めた92歳の男性が心配すること LGBT理解増進法に潜む差別、「大事なのは個々の幸せ」
6月は、性的少数者の権利への啓発を促すプライド月間。毎年、世界各地で関連するパレードやイベントが開かれるようになったのは、1969年6月28日にニューヨークで起きた「ストーンウォールの反乱」がきっかけだ。この日、ゲイバー「ストーンウォール・イン」に強制捜査に入った警察と、反発した客らが衝突。翌年6月からデモ行進が行われるようになり、性的少数者の権利拡大を求める運動として広がった。 【画像】「次に来る新人は実はゲイですが、変な目で見ないように」自分がいない朝礼で、上司が勝手に話していた 担当者にだけ伝えたことなのに…怒りや悲しみ、不信感は今も
日本でパレードがスタートしたのは、1994年。30周年を迎えた今年4月、東京・渋谷で行われた「東京レインボープライド」は過去最大の規模になった。初回のパレードを企画したのは、ゲイ雑誌の編集長などを務めた南定四郎(みなみ・ていしろう)さん(92)。当時を振り返ってもらうと、話題は昨年施行されたLGBT理解増進法へと広がった。南さんは「確かにパレードは拡大したが、性的少数者に対する社会の理解は本当に進んでいるのだろうか」と問いかけた。(共同通信=ダイバーシティ取材班) ※筆者が音声でも解説しています。「共同通信Podcast」でお聴きください。 ▽「ばれる前にやめよう」と3年続かない仕事、母の言葉で結婚も 南さんは1931年、樺太生まれ。5人きょうだいの2番目で、終戦後に母親の郷里の秋田県へと移った。自分が同性に引かれると気が付いたのは、小学生の頃だ。実家が営む商店で住み込みで働いていた少年と相撲をして遊ぶ中で自覚するようになったという。
高校卒業後は秋田市で地方検察庁に就職し、その後、働きながら大学の夜間部に通うため21歳で上京した。男性と出会える場所があると聞き、東京に行きたいという思いもあった。 20~30代にかけては、業界紙や演劇関係の出版社、労働組合での仕事を転々とした。 「仕事は3年と続かなかった。1年目は慣れるのに一生懸命で、2年目になると手を抜くでしょう。そして3年目になると、周囲が自分を同性愛者だと思っているんじゃないかと感じ始めるんです。警戒心があって、飲み会に誘われても行かなかった」 「ばれる前にやめよう」といつも思い、職場を去った。 秋田に帰省した時、「いつか孫を抱きたい」と話していた母親の言葉が忘れられず、30代で女性と結婚した。子どもが誕生したが、家庭生活は早くから破綻していた。 同性愛者であるという後ろめたさから解放されたのは40代になってからだ。1974年、当事者の視点を大事にしたゲイ雑誌「アドン」を創刊した。「誰にも雇われなくなったら不安がなくなった」。カミングアウトしたことはなかったが、雑誌の創刊に合わせて、新聞社から取材を受けたことが事実上のカミングアウトになった。