「この世をば…」栄華を極めた道長が詠んだ歌の背景を時代考証が解説!
2024年大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部と藤原道長。貧しい学者の娘はなぜ世界最高峰の文学作品を執筆できたのか。古記録をもとに平安時代の実像に迫ってきた倉本一宏氏が、2人のリアルな生涯をたどる! *倉本氏による連載は、毎月1、2回程度公開の予定です。
道長の「悦ばない様子」
大河ドラマ「光る君へ」43話では、長和二年(一〇一三)の姸子(けんし)の出産が描かれた。七月六日、姸子は、「平安(たいらか)に」皇女を出産した。後に禎子(ていし)と名付けられ、後朱雀(ごすざく)天皇(敦良〈あつなが〉親王)の中宮として尊仁(たかひと)親王(後の後三条〈ごさんじょう〉天皇)を産んだ皇女である。 『小右記』によると、道長は公卿や殿上人に会うことはなかった。「悦(よろこ)ばない様子が、甚だ露(あら)わであった」という報を受けた実資は、「女を産まれたことによるのであろうか。これは天の為(な)すところであって、人事(にんじ、人間に関する事)は、どうしようもない」と記している。
道長、三条天皇に退位を迫る
『御堂関白記』は長和三年(一〇一四)の記事を、早くからまったく欠いている(『摂関家旧記目録〈せっかんけきゅうきもくろく〉』『御堂御暦記目録〈みどうごりゃくきもくろく〉』)。眼病を患った三条天皇に対し、道長が退位を要求したこの年の記事は、道長自身が「破却」したのであろう。 二月九日の深夜、内裏が焼亡した。三条の心労は重く、これが重い眼病につながることになる。目と耳が不自由というのでは、天皇としての聴政(ちょうせい)がままならないということになり、政務や儀式の執行に大きな影響が出るのは避けられなかった。 三月十二日、大宿直(おおとのい)・内蔵寮不動倉(くらりょうふどうそう)・掃部寮(かにもりりょう)などが焼亡し、累代(るいだい)の宝物がことごとく焼失した。この火災の直後に、道長と道綱(みちつな)が並んで、「天道(てんどう)が主上(しゅじょう、三条天皇)を責め奉ったのである」ということを三条に奏上した(『小右記』)。そして二十五日、道長は三条に、譲位するよう責めたてた。 天皇であっても支配者層の総意に基づいて皇位にあるのであり、その利害を発現する義務を有する。道長が譲位を求めたのは、何も外孫(がいそん)の敦成(あつひら)を即位させて外祖父摂政(がいそふせっしょう)として権力を一手に収めたいという願望のみによるものではない。病気によって政務や儀式をきちんとこなせず、人事に際して情実による我意を張るような天皇では、宮廷社会の信任を得ることはできないといった側面もあったのである。