「この世をば…」栄華を極めた道長が詠んだ歌の背景を時代考証が解説!
隆家の大宰府赴任
実際には長和三年のことであるが、十一月七日の小除目において、同じく大宰大弐(だざいのだいに)の後任を望んでいた行成を押し退けて、博多で眼病の治療を行ないたいという隆家が大宰権帥(だざいのごんのそち)に任じられた。道長としては、三条の信任が厚い隆家が都にいるよりは、何年か遠くにいてもらった方が、退位工作に都合がいいのであろう。もちろん、行成は手許から手放したくはなかったであろう。
三条天皇からのミウチ関係構築の誘い
44話では、三条天皇がいまだ十三歳に過ぎない禔子(ていし、ていは示に是)内親王を頼通(よりみち)に降嫁(こうか)させることを提案している。三条からのミウチ関係構築の誘いであるが、道長は提案を受諾する気があったようである。実資は、「御病悩の間、深く宝位を貪(むさぼ)られるので、思い付かれたことであろう」と非難している(『小右記』)。実際には長和四年十月十五日のことであった。 ところが、頼通は十二月八日から頭痛と発熱に苦しんだ。十三日には霊気(れいき、物怪)が人に移って調伏(ちょうぶく)されたが、何と顕露(けんろ)したのは故帥(そち、藤原伊周〈これちか〉)の霊であった(『小右記』)。これによって降嫁は沙汰止みということになった。なお、禔(示に是)子内親王は万寿(まんじゅ)三年(一〇二六)に頼通の同母弟である教通(のりみち)の継室(けいしつ)となっている(最初の妻は公任〈きんとう〉の長女)。
道長を准摂政に
十月二十七日、三条は道長に、摂政に准じて、除目・官奏・一上(いちのかみ、太政官〈だいじょうかん〉首班)の事を行なわせるという宣旨を下した。実資に語った事情というのは、道長の行なうところに非が有れば必ず天譴(てんけん)に当たり、我の息災(そくさい)となるであろうというものであった(『小右記』)。 この日、「寛弘の四納言」の一人である藤原斉信(ただのぶ)は、「主上の為に、現代は後代の極まり無い恥辱(ちじょく)となるであろう」と、同じく藤原行成(ゆきなり)は、「東宮(敦成)の御代となってから、左府(さふ)は摂政となるべきであろう。ところが急にこのような事となった。主上は今年を過ぎることはできないのではないだろうか。はなはだ愚かである」と言って、それぞれ三条を非難している(『小右記』)。