「この世をば…」栄華を極めた道長が詠んだ歌の背景を時代考証が解説!
「約束が違う」と憤慨する実資
三月十五日に、三条は実資の養子である資平(すけひら)の蔵人頭(くろうどのとう)任命に関する優詔(ゆうしょう)を実資に伝えているが、道長の方は、二十二日に資平の蔵人頭任命を拒絶し、藤原道雅(みちまさ)や藤原兼綱(かねつな)、また藤原経通(つねみち)の任命を求めた。資平の蔵人頭任命については、四月十四日、三条が資平本人に任命を確約したのであるが、五月十六日に敦明(あつあきら)の懇奏(こんそう)によって、兼綱を任命した。 実資は約束が違うと憤慨し、「欠員が有ったら、必ず資平を任命すると、人を介して仰せられ、また資平にも仰せられた。ところがこれでは掌(てのひら)を反すに異ならないだけである。後々、私のことは頼みにしないでもらいたい」と記している(『小右記』)。 翌日、実資を御前に召した三条は、「後に欠員が有ったならば、必ず資平を任命しよう。他の蔵人頭とは比べものにならないくらい、特に親しく思うことにしよう」などと語るのであった。すっかり呆れ果てた実資は、「これは極めて軽々であり、これまで直接言ってきたことも相違したのであるから、今日、直接に後の事を仰せられても、頼みにするわけにはいかない」と、三条の対応にすっかり懲りてしまっている(『小右記』)。
道長と三条天皇との攻防
長和四年(一〇一五)には、道長と三条との攻防が大詰めを迎えた。四月十三日、道長は、「今日は天皇が病悩されている御目が、特に暗い」ということで、官奏(かんそう)を奉仕することはなかった(『御堂関白記』)。この日、三条は、参内してきた隆家(たかいえ)に対し、「今日は心神(しんしん)の具合が宜(よろ)しい。目はまだ不快である。左大臣(道長)が、今日、参入してきたが、機嫌は宜しくなかった。これは、私の心地が頗る宜しいのを見て、不愉快になったのである」と語った。それを聞いた実資は、道長を「大不忠の人」と罵(ののし)っている(『小右記』)。 三条は九月七日、眼病について、実資に密勅(みっちょく)を賜わった。すでに三条も実資も、譲位自体は仕方のないこととして、譲位に際しての条件闘争に方針を切り替えていたのである。